崖の上のポニョで最も分かりにくいのは、宗介とポニョの関係かもしれません。ここをミスリードすると、映画そのものが解釈不能かつ意味不明になる可能性があり得ます。それにより、何の変哲もないオーソドックスなよくある話が、観客を置き去りにした自己満足的な実験作のように見えてしまう可能性があります。
以下、ネタバレありですので、ネタバレを希望されない方はすぐに閉じてください。
こ
れ
は
ネ
タ
バ
レ
注
意
の
た
め
の
長
い
隙
間
空
け
の
た
め
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文
字
列
で
す。
ミスリードの前提 §
ここでは、典型的な1つのミスリードの構造として以下のような解釈を前提とします。
- 宗介とポニョは互いに恋に落ち、愛し合っていて一緒になりたいと思っている
従って、この映画は以下のような主題を語っていると解釈されます。
- 恋を成就するにはポニョを人間にする必要があり、それを成し遂げるために、宗介とポニョが試練を乗り越える物語である
この解釈を取ると、実は映画の結末が支離滅裂で意味不明になります。
なぜかといえば、以下のような状況が見られるからです。
- ポニョは自らの獲得した魔力で既に人間に変身する力を手に入れており、今更「人間になるための試練」を必要としていない
- 宗介はポニョを守ると約束していたにも関わらず、リサを捜すために家を離れてしまう。更には無人のリサの車を見つけて激しくうろたえる等、ポニョよりもリサの方が大切に見える描写も多い
- 宗介とポニョの関係が深まることを望まない者は誰もいない。彼らの関係を妨げる者もおらず、その点に関しては何も障害はない
- ポニョを人間にしたいと思っていたのは、グランマンマーレでありフジモトであり、事情を聞いて納得したリサであり、見届け人となることを要請された老人達である。この中に、宗介とポニョは入っていない
このような矛盾は、以下のような至極当たり前の認識を導入することで、容易に解消することができます。
- 5歳でも女の子に心を奪われることはあるが、愛する女性と一緒になる「恋」は、5歳の子供が持つ欲求ではあり得ない
- 5歳の子供にとって、母親は極めて大きな存在感を持つ
つまり、宗介はポニョを愛しているが、その愛は「大人の恋」とは別物だということです。
では、宗介のポニョに対する「愛」の正体とは何でしょう?
追加される前提 §
ここで、以下の前提を追加します。
- 5歳は、自分の行動ポリシーを確立できる年齢でもないし、他人の助力無しでそれを遂行できる年齢でもない
従って、宗介の行動には何らかのモデルがあるはずだと考えます。
これについては、既に「崖の上のポニョ」の感想・単純明快なのに、みんな見終わって難しい顔で出てくる謎の映画?において、以下のように述べました。
2つレイヤーが反復される構造 §
5歳の男の子は、まだ自分のポリシーなどを確立できてはいません。
従って、行動にはお手本が必要です。
お手本を提供するのは母親のリサです。
そのため、おおまかな意味でリサの行動を宗介が反復するという構造が見られます。
具体的には、「頼る相手を喪失した状況下で、より弱いものを守り面倒を見なければならない」という構造が反復されます。
第1段階において、リサは夫という頼る相手を喪失した状況下で、老人達、宗介、ポニョの面倒を見なければなりません。
そして、リサが家を離れた翌朝から、宗介はこの構造を反復します。つまり、リサという頼る相手を喪失した状況下で、ポニョの面倒を見なければなりません。
説明される宗介の行動 §
この認識は、宗介の行動をよく説明できるという点で優れています。
まず、宗介が家から船出する理由について。
リサ不在の家で目覚めた宗介は、家にいて助けを待つという発想を一切持ちません。彼は家で待っていなければならない立場であるし、これ以上水位が上がって家が水没するとも決まっていません。仮に高くなっても、家の中の高いところに上がれば、時間は稼げるでしょう。しかし、宗介はリサを探しに行く、という選択肢以外に言及することはありません。これは不自然に見えます。
ですが、上記の行動原理を元にすればよく説明できます。リサは、夫が約束の日に帰らないと分かっただけで家事の全てを放棄してふて寝してしまいます。つまり、精神的に頼る相手の不在という状況に耐えられません。同様に、宗介はリサの不在という状況に耐えられないと考えれば、行動に辻褄が合います。
映画表現的に言えば、ふて寝するリサが伏線として行動原理を説明し、説明された行動原理を息子である宗介が反復する形になります。
また、無人のリサの車を見て宗介が激しく狼狽することも、同じ理由で説明できます。リサの不在に宗介は耐えられないからです。
宗介にとってのポニョとは何か? §
とすれば、宗介にとってのポニョとは、リサにとっての老人達と同じ位置づけになります。だからこそ、半魚人のポニョも、魚のポニョも好きだと言うことができたのでしょう。リサにとっての老人達が愛すべき存在であるのと同じように、魚のポニョも愛すべき存在です。
それはけして悪い意味ではありません。手間の掛かる弱い他人の面倒を見て守ろうという意思は、素晴らしい良きものです。
それに、宗介から見たポニョには、淡い恋心のようなものも含まれているでしょう。
しかし、それにも関わらず、リサが夫の不在に耐えられないように、宗介もリサの不在には耐えられないわけです。
この映画は何であったか §
以上のような認識から、崖の上のポニョを要約すると。
- 宗介とポニョは互いに恋に落ち、愛し合っていて一緒になりたいと思っている。恋を成就するにはポニョを人間にする必要があり、それを成し遂げるために、宗介とポニョが試練を乗り越える物語である
ではなく。
- 父親の手に負えないポニョという魚の娘が、人間の男の子(宗介)を好きになってしまい、彼のところに行くために魔力まで身につけてしまった。それは世界を破滅の危機に陥れた。父親の手に負えなくなったので、母親が出てきてポニョを人間にして宗介と一緒に暮らさせることにし、そのことを宗介の母親であるリサに対してお願いした。この解決策において、宗介はポニョの正体を知っても好きであるという「条件」(≠試練)が要求されたが、宗介はそれをクリアした
なのでしょう、たぶん。
すると、この映画は。
という映画ではなく。
- ポニョがリサの娘になり、宗介にとって妹以上に大切な妹になる
という映画なのかもしれません。