橋本由紀は寝るのが好きだった。
だから、朝は1秒でも多く寝ていたかった。
そのため、橋本由紀は起床時刻を1秒でも遅らせるための様々な工夫と地道な努力を行った。通学に使用する電車の時刻表を調べ、自宅から駅、駅から学校までのあらゆる道筋も調べ上げた。そして、それらを最短時間で駆け抜けるための脚力も鍛えた。
その結果として、誰もが予想もしなかった成果をものにしたのである。
駅から学校までの間、行く手を遮る信号が12カ所あったが、橋本由紀は歩道橋や裏道を駆け抜けることで、そのうちの11カ所までをバイパスして疾走したのだ。それの結果として、遅刻ぎりぎりの最後の列車として知られていた普通列車よりも1本後の急行に乗っても、遅刻せずに学校に到達可能となったのだ。それにより、なんと橋本由紀は15分遅く家を出ても遅刻しないで済むようになったのだ。
もちろん、この成果を真似しようとする者は何人も出た。より1秒でも長く寝たいと願う者は橋本由紀だけではなかったのだ。しかし、彼らはことごとく試みに失敗した。橋本由紀の無駄のない緻密な走りを完全に再現することは、誰にもできなかったのである。
その結果、普通列車並みの凡人には真似が出来ないという意味と、1本遅い急行でも間に合う間に合うという2つの意味を引っかけて、彼女は「急行・橋本由紀」と呼ばれるようになった。
その名が校内に知れ渡ると、陸上部の監督が橋本由紀をスカウトに来た。もちろん、橋本由紀よりも速い者は陸上部に何人もいた。しかし、トップクラスの脚力に加え、橋本由紀が持つような緻密な分析力と、それを実際の走りに応用する能力を持った者は他にいなかった。その結果、橋本由紀は陸上部を代表するランナーになり、様々な大会でも優れた成果を残した。「急行・橋本由紀」という分かりやすいキャッチフレーズも相まって、マスコミも彼女のことを取り上げた。
さて、橋本由紀の名が知れ渡ると、彼女に挑戦状を突き付ける者が出てきた。
「同じユキでも、格の違いを教えたる。そっちが急行なら、こっちは特急や!」
そうマスコミにいきまいて注目を集めたのは、関西の無名校から突如飛び出してきた蜂央寺有希だった。彼女は、誰よりもきつい前傾姿勢で素早く前に切り込んでいった。そこで付いたニックネームが傾王だった。だが、「急行・橋本由紀」に挑戦するにあたり、彼女は自らを「特急、傾王・蜂央寺有希」と呼ぶように求めた。
もちろん、マスコミは彼女が「特急」と呼ぶに値する理由を質問した。
「よくぞ聞いてくれた。『急行・橋本由紀』は駅から学校までの12個の信号のうち、11個までバイパスして疾走するそうやないか。つまり停車駅1つや。でも、うちの学校は駅から学校まで信号が17個あって、うちは緻密な計画を立てて全ての信号をバイパスしてるんや。つまり途中停車駅皆無やから急行以上の『特急』や。人並み以上の前傾姿勢を取れるのは、ノンストップで疾走できるからなんや。途中停車駅のある『急行・橋本由紀』とは走りの質が違うんよ」
だが、蜂央寺有希の具体的な情報は手に入らなかった。タイムの情報もなく、ただ「速い」という噂だけが伝わってきた。どうやら、あまりに速いのでタイムを公表できないのではないか、という噂まで聞こえてきた。
橋本由紀は不安になった。自分はまだ甘かったのではないか。やはり、特急に急行は負けてしまうのではないか。
しかし、監督は笑って答えた。
「本当に急行より特急が速いかな?」
陸上全国大会の日、ついに「急行・橋本由紀」と「特急、傾王・蜂央寺有希」の対決が実現した。
多くの者達が両者の対決を固唾をのんで見守った。
そして、蜂央寺有希は速かった。観衆の誰もが息をのむほどに速かった。
だが、橋本由紀はもっと速かった。
勝負の後、蜂央寺有希は悔しそうにコーチに叫んだ。
「なぜ特急と認められたうちが急行に勝てないんや!」
するとコーチは答えた。
「関西私鉄最速の特急より、新幹線でいちばん遅いこだまの方が速い」
(遠野秋彦・作 ©2008 TOHNO, Akihiko)
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