父は家に帰りたくなかった。
家に帰れば、妻と2人の子供が待っているはずだったが、できるだけ彼らの顔は見たくなかった。
なぜかといえば、妻は真性のサディストで、上が女、下が男の2人の子供も妻の性癖を受け継いでいたからだった。子供が起きている時間に帰宅するのは自殺行為と言えた。サディスト3人からの攻撃は、とても1人で受け止められるものではない。
一方、父はマゾヒストではなかった。父は、気が弱くイヤとは言えない性格なので、妻に見初められて結婚することになったが、あくまでイヤと言えないだけであって、いじめられて楽しむ性癖は持ち合わせていなかった。
もちろん、その事実は家では何の意味も持たなかった。父がいじめられて喜ぶか否かはいじめる側からはどうでも良かったのだ。いや、むしろ快楽の声を上げるよりも、悲痛な叫びを上げる方が好ましいぐらいだったかもしれない。
だから、父は周囲から何度も離婚を勧められた。だが、父はガンとしてそれを受け入れなかった。彼にとって、家族を養うというただそれだけのことが、生きている意味であり、プライドだったからだ。どれほどサディストであろうとも、彼らを養う力を持つのは父だけだったのだ。
さて、そのような立場の父は、遅々とスローペースで家路を歩いていた。せめて子供が寝た後で帰宅したかったからだ。
その父に声を掛ける女がいた。
「もし。どうして、そのようなスローペースで歩いていらっしゃるのでしょう?」
「早く帰っても家族にいじめられるからですよ」
「ならば、遅く歩かないで、どこかで時間を潰せばよろしいのでは?」
「それはできません。まず、金がありません。小遣いは社食のいちばん安いランチの代金しかもらっていません。それに、何をしても体力を消耗します。僕には帰った後で夫婦生活を行う義務があるのです。なけなしの体力は、温存しなければなりません」
「そういうことなら、力をお貸ししましょう。タイムマシンで小刻みに時間を戻しつつ過ごせば、外部の時間の2倍の時間を過ごせます。そこで遊んで、それから休憩して体力を回復すれば、夫婦生活バッチリ状態で帰宅できますわよ」
「でも、僕にはお金が……」
「それはいいんです。私は未来のあなたに助けられた未来人。恩返しのために過去に来たのですから」
父は、言葉の意味が分からず、ポカンと女を見上げた。そういえば、銀ピカの服を着たおかしなファッションをしていた。
父はそのまま女にご馳走をもらい、大人のゲームに興じ、それからたっぷり休息を取ってから帰宅した。
驚いたことに、あれだけ遊んだのに時間は半分しか進んでいなかった。
父は、子供が寝た後に帰宅し、立派に夫婦生活をやり遂げた。
翌日も未来人の女は現れた。父は、タイムマシンで時間を戻しつつ過ごす快楽に酔いしれた。
そのような日々が続くと、やがて快楽に飽きがする。父は、未来人に要求して時間を戻す比率を上げさせた。
現実の時間に比べ、何倍もの時間を遊んで過ごせるようになった。
そのうちに、父は未来人の女が決めた時間しか遊べないことに不満を感じるようになった。何とかして、自分で遊ぶ時間をコントロールしたい……。そして、父は女からタイムマシンのコントローラを取り上げることに成功した。
こうなったら父の天下だ。もちろん、タイムマシン運転免許を持たない父にできるのは、数時間単位の時間移動だけでしかない。たとえ昨日であっても、それを超えて過去には戻れないのだ。
だが、それは何ら問題なかった。父が望んだのは、好きなだけ帰宅を遅らせる機能だけだったからだ。
そして父は自由な時間を堪能し、しこたま酒を飲み、酔った頭で計算してタイムマシンを操作した。
「もうやめてください」と懇願する未来人の言葉に少し罪悪感を感じた父は、やっと帰宅することに決めた。
上機嫌で父が家のドアを開けると、もう寝たはずの子供2人が嬉しそうに走ってきた。
父は顔から血が引いていくのを感じた。
なぜだ。子供達はもう寝たはずではなかったのか。父は慌てて時計を見ると、まだ子供番組を放送している時間だと分かった。
父は悟った。
タイムマシンの操作を間違えたことを。
その夜、父は妻と2人の子供の、はげしいいじめを受けた。
そして、翌日から未来人の女は出現しなくなった。
(遠野秋彦・作 ©2008 TOHNO, Akihiko)
★★ 遠野秋彦の他作品はここから!