基本情報 §
- 確認年月日: 2006年5月5日, 2006年5月6日, 他
- 状態: A~C間は一般道
- 状態: C~H間は玉川上水第2公園
- 状態: H~K間は玉川上水第3公園
- 状態: K~L間は永泉寺緑地
- 状態: L~N間は一般道
- 状態: N~P間は玉川上水公園
- 状態: P~Q間は和泉給水所
- 状態: Q~S間は一般道 (かつてはこのあたりで甲州街道北岸から南岸に流れが変わり、橋があった)
- 状態: S~T間は開渠 (地下水を汲み上げて流しているとされる。水量は多くはない)
- 状態: T~U間は公園
- 種別: 上水跡
- 名称の由来: 「玉川上水」は正式な名称
位置 §
A点より先、U点より先も全て存在するがラインを引いてはいない。
A点付近・環八中ノ橋交差点 §
U点付近・環七の下をくぐる地下道入り口 §
備考 §
玉川上水は羽村から四谷大木戸(現四谷三丁目交差点付近)に至る水路である。江戸時代に、江戸の上水を確保するために、玉川兄弟が開削し、1654年(承応3年)より使用開始されたとされる。しかし、開削当時の資料はほどんと残っておらず、本当に玉川兄弟が開削したものであるかを含め、詳細は分かっていない。
なお、建設の際に立ち退きが求められた農家7軒が移住してできた村は中高井戸村といい、これは現在の杉並区松庵にあたる。しかし、ここは上高井戸、下高井戸のいずれとも隣接していない。
天然の河川を基にした神田上水(神田川)と異なり、玉川上水は戦略的な重要資源として厳格な管理が行われており、玉川上水に隣接する水田であっても自由に水を使うことはできなかった。使用するためには分水を引く許可を得、そこから更に水を得る必要があった。分水に流れる水の量は、取水口で厳格に管理されていた。
水の流量は多く流れも激しく、落ちたら助からないとも言われた。その点で、清流復活事業によって開渠区間に流れる少量の静かな流れは本来の玉川上水の状態を再現していないと言える。
玉川上水は物流にも有益であり。そこに船を通したいという要望は江戸時代から根強くあった。これを「玉川上水の通船問題」という。通船は1870年(明治3年)に認められたが、上水への汚染が問題となって、2年で中止されている。玉川上水第3公園には船の形をした大型の遊具があるが、玉川上水跡に船が存在するのはある種の皮肉と言える。通船問題は、船ではなく鉄道によって輸送を行う方向に変化し、現在のJR中央線の前身となる甲武鉄道建設に続く。
1898年淀橋浄水場の完成に伴い、P点より下流(東側)は玉川上水新水路を流れるようになった。
1965年浄水場廃止により、上記地図範囲の玉川上水は全て役割を終え、一部を残し埋め立てられた。それらの土地は公園や道路の一部となっている。地下には管が埋まっている可能性があるが、ここに通水は行われていないと思われる。(ただし、清流復活事業により小平監視所から浅間橋まで流れた水が、高井戸駅近くで神田川に放流されており、この流れの経路によっては浅間橋からA点まで地下を水が流れている可能性はあり得るが詳細は不明)
永泉寺について §
「玉川上水 橋と碑と 蓑田倜(たかし) クリオ 一九九三年十一月一五日発行」より引用。
玉川兄弟が上水を高井戸付近まで掘り進んだとき、資金が底をつき、兄弟は日夜資金の調達に奔走した。ある日、下高井戸の現場で働く人夫が、堀かけの新堀の中から白色の玉石を見つけ、庄右衛門のところへ届けた。高井戸の新堀から出た玉石は、江戸中の評判になり、以後資金の調達もはかどり、四谷大木戸までの開削に成功した。
この玉石はケガや眼病に霊験があらたかだったので、庄右衛門は日頃進行する薬師如来のおかげであるとして薬師堂を建立、玉石を納めて「玉石薬師」と名づけた。享保四年には薬師堂を守るために「永泉寺」が建てられた。(以下略)
この永泉寺は、「永泉寺ぼろ市」の名で知られた有名な寺であった。しかし、明治43年に永昌寺と合併し、名前も永昌寺となりその名の寺は現存しない。だが、K~L間の永泉寺緑地を始め、周辺にはいくつかの名前が残る。
変更履歴 §