2008年09月06日
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「スカイ・クロラとフジモト」中二病で読み解く2008年という時代とポニョ

Written By: トーノZERO連絡先

 立て続けに「中二病」という言葉を見聞きして、「おお、そうか! 時代は中二病か!」と納得したので書いてみます。

趣旨 §

  • スカイ・クロラとは要するに中二病肯定映画である
  • 崖の上のポニョの登場人物であるフジモトは中二病患者であるが、作中で存在が肯定されている
  • 2008年は中二病の年かもしれない
  • 中二病は否定されるべきものではない
  • 中二病に対して重要なことは、それを自覚して正しくコントロールすることである

前置き §

 アニメの銀魂を見ていたところ、第122話「想像力は中2で培われる」2008年9月4日放送で、頻繁に中二病という言葉が使われていました。(より正確には前回の第121話「素人はプラスとマイナスだけで十分だ」より)

 そして今日は、本屋で「学園黙示録HIGHSCHOOL OF THE DEAD 5」の帯に、押井守と並んで賀東招二のコメントとして「中二病男児(俺含む)の理想郷!!」という言葉を見ました。

 立て続けに「中二病」という言葉を見聞きしたので考えてみると、スカイ・クロラという作品も明らかに「中二病」の話です。1つの本の帯に「中二病」という言葉と、押井守という名前が並んでいるのは偶然ではないでしょう。

ポニョも中二病映画か?_ §

 では、崖の上のポニョは「中二病」映画ではないのでしょうか? 明らかにポニョや宗介は中二病に掛かるには若すぎ、リサやグランマンマーレのような母親達は中二病ではいられないほどのリアリズムの世界に生きています。そういう意味で、この映画の主要なテーマが中二病に無いことは明らかです。

 しかし、よく考えるとフジモトという男はまさに中二病患者そのものという感じを受けます。カンブリア爆発のような生物種の発生などという大きな出来事を、人間1人ごときの力で成し遂げられると思い、それを実践しようとするのは極めて中二病患者的な行動でしょう。

実際には古い概念である「中二病」 §

 昔々、E.E.スミスという作家がいて、スカイラークやレンズマンという小説シリーズを書いていました。ちなみに、アニメのレンズマンを見たことがある人は忘れてください。あれは別物です。

 さて、E.E.スミスの作品は14歳に読まねば意味がない、という話を聞いたことがあります。これは非常に良く分かります。なぜかといえば、実際に14歳前後に読むのが、最もエキサイトできるからです。これはも自分の体験から明らかです。銀河パトロール隊はもっと低い年齢で読んでいますが、14歳前後にカバー無し数十円で買って読んだグレー・レンズマンの面白さには勝てません。ここまでの話はQX?

中二病の発露 §

 この「14歳」という概念は、おそらく「中二病」と同じものです。

 だから、けして今時の若者は14歳でダメになるという話ではなく、誰でもそういう時代を通過するのだという話だと思います。

 そして、何かしら、そのような世代のトキメキを胸の中に残してしまう者達もいるでしょう。だから、14歳前後を遙かに超えて30を過ぎようとも40を過ぎようとも中二病の症例を見せる者達は存在するし、自分の中の中二病を制御された形で発露させる人たちもいるわけです。

 たとえば、スカイ・クロラという作品は、戦闘機のエース・パイロットになると言う非常に中二病っぽい願望を充足します。しかも、永遠に大人にならないことにより、夢から覚めて現実に直視することを免除されています。それに加え、いかに彼らが苛立って自殺をしてみせても、彼らの人生はリセット可能です。死んでも記憶のない新しい自分として人生を生き直せます。まさに理想的な中二病充足作品です。

フジモトに見る中二病 §

 フジモトも、やはり中二病の理想郷を手に入れています。

 おそらくは不老不死の身体を手に入れ、数百年にわたって世界を変革する大事業(あるいは自分の趣味)に没頭することが許されます。しかも、他の人間と付き合って煩わされることも殆どありません。

 そういう意味で、フジモトの生き方はスカイ・クロラと同様に中二病の理想郷です。

否定されない中二病 §

 そして、スカイ・クロラにおいても、ポニョにおいても、中二病的な生き方は否定されません。グランマンマーレは、フジモトに対して、もっと現実を直視して妻子のために働け、とは言いません。フジモトの行動は彼女から許容されています。

 スカイ・クロラのキルドレの世界も同様です。

中二病を無条件に肯定して良いのか? §

 しかし、中二病を無条件に肯定して良い訳ではありません。なぜかといえば、全ての人間が中二病であっても世の中は上手く動かないからです。キルドレが中二病でも許されるのは、それが一般の人々の代理として戦争を行って死ぬ存在だからです。

 つまり、以下のように言えます。

  • 社会には中二病があっても良い、あるいは中二病であっても許される状況がある
  • そのような中二病を否定することに意味はない
  • それに該当しない状況下での中二病とは、おおむね社会の迷惑になる

フジモトが持っている中二病スイッチ §

 フジモトの行動を見ていると、実はポニョが家出した時点で中二病の症状が消失していることが分かります。夢想的な中二病患者から家出娘を抱えた父親というリアリズムの住人に変化するのです。これは「中二病スイッチ」と呼んでも良いでしょう。

 フジモトが否定されない理由を考えると、このスイッチの存在意義が大きいことが考えられます。

 逆に言えば、中二病患者が社会の中で生きていくためには、「中二病スイッチ」が必要であるとも言えます。それを持たない中二病患者は迷惑であると言えます。

 そのように考えると、スカイ・クロラでもインタビューされて大人の受け答えができるカンナミも「中二病スイッチ」を持った存在として描かれていると言えるかもしれません。

まとめ §

 フジモトの生き方は宮崎駿の理想的な生き方の1つではないか、という気がします。キルドレは、森博嗣ないし押井守が持つ1つの理想的な生き方ではないか、という気もします。

 ここで問われているのは、そのような理想的な生き方を行うために持つべきものは何か……という問いかけであり、けして中二病の是非ではないように思います。

 そして、おそらくは「中二病スイッチ」がその答の1つであるような気がします。

崖の上のポニョ