この話題は1回書いておく必要があるだろう、と思うので書いておきます。
まず、『「スカイ・クロラとフジモト」中二病で読み解く2008年という時代とポニョ』を読んでからこの続きを読んでください。スカイ・クロラもポニョも知らない人は読みにくいかもしれませんが、おおむねムードは掴めると思います。
さて、このように考えてみると、毎日のようにACE COMBATの空を飛び続けている私も痛い存在であり、一種の中二病ではないか、という疑惑が出てくるでしょう。
その点については特に否定される理由はないと思います。
つまり、「学園黙示録HIGHSCHOOL OF THE DEAD 5」の帯に、賀東招二のコメントとして「中二病男児(俺含む)の理想郷!!」と書かれた「中二病男児」に私も含まれるという認識でOKです。
というわけで、結論が出たので話は一応終わりです。
……このあと少し暴走します。
中二病男児ってそもそも何だろう? §
さて、ここには1つの矛盾があります。
というのは、中二病とはたいていの場合無自覚なものであり、中学2年前後の者が中二病的な言動を行う場合、彼らはけして自分が中二病であるという自覚はしておらず、本気の確信を持って言動を引き起こします。
従って、中二病患者が自ら「自分は中二病男児だ」と主張することは、本来なら不自然なのです。
ということは、実は「自分は中二病男児だ」と主張する者と、本来的な意味での中二病患者である中学2年前後の者達は同じではありません。
では、彼らを分かつものはいったい何でしょう?
それは「自分を中二病患者だ」と把握できるもう1つの視点の存在です。
レッドサン・ブラッククロスを例にして考える §
「学園黙示録HIGHSCHOOL OF THE DEAD」の原作者である佐藤大輔の代表作であるレッドサン・ブラッククロス(RSBC)を例にして考えてみましょう。
RSBCとは別の歴史を辿った世界において、日本とドイツが第3次世界大戦を戦う話です。英米が没落し、ドイツがヨーロッパを支配し、強大な軍事力を持った日本はドイツと世界戦争を行います。そして、作中では日本が現実の歴史では持ち得なかった強力な戦車や巨大な航空部隊と艦隊を持ち、ドイツも計画だけで終わったような超兵器を繰り出してきて戦います。そして、そこで戦うのは日本人であり、彼らは世界の命運を背負っており、しかも世界最先端の最強兵器群を操って死闘を演じて(少なくとも海では)勝利します。
これだけ読むと、これはまさに中二病的なパラダイスに思えるかもしれません。もしかしたら実際に起きたかもしれないifの世界、という美辞麗句に彩られながら、本来あり得ない展開や技術に支えられた「起こるはずもない世界」を現実であるかのように倒錯できます。
ところが、実際のRSBCという作品はそういう内容ではないのです。汚い現実、無力な自分、官僚主義、間違った判断、異常状態下で発生する普通ならあり得ない出来事、あまりに過酷すぎる戦場、……そして戦場に適応してしまう者達。更に言えば、RSBCという作品は、日本が勝利する戦闘では、敵側であるドイツを主人公として彼らの敗北の物語として語られることが珍しくありません。
二重視点という構造 §
これは、作品の視点が二重化されていることを意味します。つまり、1つのレイヤーにおいて日本が勝利する甘美な世界を描くと同時に、それが実際にはあり得ないことであり、しかも綺麗なことですらないことを冷静に見ているレイヤーが存在します。この2つのレイヤーが二重化されています。
つまり、中二病のパラダイスとしてのレイヤーと、大人の視点を持ったレイヤーが二重に存在します。
この二重化によって、作品の健全性が担保されていると言って良いでしょう。逆に言えば、単に中二病患者に奉仕するだけの作品は不健全だとも言えます。
実は二重視点を持つACE COMBATシリーズ §
そのように考えると、実はACE COMBAT 3以降のACE COMBATシリーズの多くの作品も、二重視点を持っています。
ちなみに、ACE COMBAT 3の佐藤大氏がシリーズ構成を努める新作TVアニメが昨日から始まっています (シリーズ構成とは作品に最も強く個性を反映させることができる役職の1つ。作品の柱といっても過言ではない)。偶然にしては良いタイミングです。
以下のムービーの脚本に佐藤大氏の名前を見ることができます。
さて、ACE COMBAT 3という作品の本質的な構造は、ある意味で上記文章で取り上げたスカイ・クロラと似ています。
- どちらも私企業が戦争を行っている
- 永遠に年を取らないキルドレと、サブリメーションされたパイロットは実際の肉体の有無という差はあれど、質的に似ている
そして、ここで見られるのは、やはり二重視点です。
ACE COMBAT 3では、プレイヤーはまさに中二病的夢想を体現したエースパイロットとしてあちこちの勢力を渡り歩きます。それにも関わらず、それよりも上位のレイヤーにおいて、これがサイモンの個人的な復讐のために仕立てられた計画に過ぎないことが語られます。つまり、プレイヤーが素晴らしい成果を出すことは、あくまでサイモンの復讐を達成する手段でしか無く、何ら素晴らしいヒーローになる手段ではないことが明らかになります。その結果、プレイヤーは自分をヒーローとして酔うことができるレイヤーと、他人の都合によって道具として使役されることを自覚するレイヤーの二重視点を持たざるを得ません。
つまり、ACE COMBAT 3は中二病的な作品としては極めて健全です。
他の作品もおおむね健全だ §
このような二重視点はシリーズの他の作品にも見られます。
ACE COMBAT 04では、プレイヤーがヒーローになることは、とある少年と少女のヒーローを殺すことになります。
ACE COMBAT 5では、前半戦において戦争の拡大にそれと知らずに荷担させられてしまいます。
ACE COMBAT ZEROでは、最も信頼する相棒に裏切られます。
つまり、これらの作品も健全です。
まとめ・理想郷はけして多くはない §
「中二病男児」が、自らを中二病であると自覚する二重視点を持ちつつ安心して楽しむには、やはり健全な作品が必要とされます。
RSBCにせよ、スカイ・クロラにせよ、「学園黙示録HIGHSCHOOL OF THE DEAD」にせよ、その条件を満たします。そして、ACE COMBATシリーズもおおむね条件を満たすと考えて良いでしょう。しかし、そのような作品は実際には少数派です。
ということは、「中二病男児(俺含む)」が安心して遊べる場はけして多くはないがゆえに、その少数の場に浸ることはある意味で必然であるとも言えます。
つまり、ここで私がACE COMBATシリーズの空を飛び続ける理由(の1つ)が示されるわけです。