検地 §
検地は延寳(延宝/えんぽう)二年中川八郎左衛門・關口作左衛門等にて、後また享保十八年筧播磨守糺せり、
検地とは。WikiPediaの検地より
検地(けんち)とは中世から近世にかけて行われた田畑の面積と収量の調査のことである。現在の課税台帳整備に当たるもの。
具体的な名前の検証は(どこまで検証できるかを含め)、それだけで1つのテーマであると思われるので、ここでは割愛します。
「糺せり」についてはYahoo辞書の「ただ・す【×糺す】」の説明は以下の通りです。
[動サ五(四)]《「正す」と同語源》物事の理非を明らかにする。罪過の有無を追及する。「事件の真相を―・す」「事の是非を―・す」
[可能] ただせる
[類語] 調べる・問う
つまり、筧播磨守は享保18年に、延宝2年の検地が正しく行われたかを調べた、ということなのでしょう。
延宝2年は1674年です。
享保18年は1733年(僅かに1734年にまたがる)です。
ちなみに、これらはいずれも安永四未年七月(1775)の下高井土村分水以前になります。
従って、下高井土村分水以前の調査結果を根拠に徴税が行われたことになりますが、この件の検討もそれだけで1つのテーマになりそうなので、割愛します。
代官 §
正保の頃は野村彦(正確には上は「文」)太夫御代官に其後還替あり、今は小野田三郎右衛門支配す、
代官とは。WikiPediaの代官より
代官(だいかん)とは、君主(国家)の代わり任地の行政・作事などを司る職務を司った者及びその地位をいう。日本では、武家政権における役職の一つとなった。
人名の検証は上と同様に割愛します。
正保は1645年から1648年までの期間です(僅かに1649年にまたがる)。
「今」は新編武蔵風土記稿の「1810年起稿。1830年完成」という期間のいずれかと思われます。
当然、期間がかなり空いていますが、たまたまここでは2つの名前を出しただけで、当然その間には別の誰かが代官になっていたと考えられます。
高札場 §
高札場 村の南よりにて、街道の中程にあり、
高札場とは。WikiPediaの高札場より
高札(こうさつ)とは、古代から明治時代初期にかけて行われた法令(一般法、基本法)を板面に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法である。
(中略)
幕府は人々の往来の激しい地点や関所や港、大きな橋の袂、更には町や村の入り口や中心部などの目立つ場所に高札場(制札場)と呼ばれる設置場所を設けて、諸藩に対してもこれに倣うように厳しく命じた。(中略)。また、宿場においても多く設置され、各宿村間の里程測定の拠点ともされた。このため、移転はもとより、高札の文字が不明になったときでも、領主の許可なくしては墨入れ(高札は墨で書かれていたため、風雨には大変弱かった)もできなかった。
つまり、高札場とは高札を示す場であるという機能性だけでなく、それが位置の基準になるという性質があり、場所が明確に分かれば価値があります。そのような観点から下高井戸宿の高札場の位置も比較的詳しく書かれています。……と言いたい所ですが「南より」「中程」と、表現は曖昧です。
更に言えば、ここでいう街道は甲州街道(甲州道中)と理解して良いと思いますが、明らかにこれは「村の南より」を通っているので、「街道の」と言った時点で「南より」は意味のある追加情報になっていないことになります。
従って、ここで有効な情報は「街道の中程」だけであり、現在の桜上水駅の前後の甲州街道沿いにあった、という程度の情報しか得られないことになります。(街道の南側とも言えない)