ドボク系の人たちに1つだけ違和感があるのは、やはりカメラとの関わりです。
たぶんこういうことだと思います。
見えるもの・見えないもの §
ドボク系の人たちはビジュアル重視です。なぜなら、「団地萌え」からして一種の写真集であり、撮影されることが終点です。
ところが私が見ているものは撮れません。もう存在しないからです。従って、写真は見に行くための手段であり、ゴールではありません。だから、画質よりのフットワーク重視であり、いつも持ち歩いているAdvanced/W-ZERO3 [es]の内蔵カメラが活躍します。デジイチは持ってすらいません。そういう、事前に「持っていくぞ」と準備しないとならないアイテムは面倒がありすぎます。結局、撮りたいときに手元にないことになります。これが私の到達した1つのゴールです。
(そこに至るまでデジカメに費やした金額も半端ではないが、当時はまだデジイチは無いか、あっても限定されたマニアが使うものだった)
であるから §
つまり、写真もサイトもTV番組の一種の手段です。現地に出かけて実際に体感するための手段です。そういう意味で、自分、裸眼、体感が重要であり、どれほど綺麗な写真も手段以上の意味はありません。それは個人的に終着点ではないわけです。
では真に最終的なゴールといえるのは何か。
おそらくそれは人間だろうと思います。
作った人、使っている人などです。
(だから、運良く通行人が入ればできるだけ入れて撮りたいと思ってますよ。いろいろな意味で、人がいた方が良いはずです)
いやなぜこういうことを考えたのかといえば §
人工物は人を見るための手段であり、人間中心主義です。
歴史もやはり人を見るための手段です。
だから、人を見るというガソリンスタンドの松村さんは近い存在です。