ヤマト第1作の女といえば、「うっかり出てしまった作画上の人物」「名もない脇役」や「過去の回想」は別とすれば森雪、スターシア、サーシアです。
このうち、サーシアは出てきたときには死んでいるので、実質的に2人です。
そして、スターシアはヤマトを導く女神であり、ヤマトの殺生与奪権を実質的に持ちます。森雪は一貫して生身のヒロインとなり続けます。(神秘性を発揮するのは最初だけ)
この二重構造は「さらば」で踏襲されます。テレサは触れることもできない相手として設定され、「宇宙の愛」という宿題までもらって全裸なのに肉欲の対象になりません。
が、この二重構造は盤石ではありません。
ヤマト25話でスターシアはイスカンダルの新しいイブとされて、生々しい肉体を持った女に変貌します。ヤマト2で、テレサは服を着ているのに具体的に島と愛し合う関係に陥ってかえって肉欲の対象に落ち込んでいきます。
では、そもそもヤマトにおいて「女神」という概念とは何を意味するのか。
もはやヤマト2のテレサは女神ではないのか?
母となった新たなる旅立ちのスターシアはもはや女神ではないのか?
実はそうじゃない §
ヤマト復活編で分かりました。
折原真帆はあまり可愛くないのです。優秀な女であり、恋愛の対象になるような可愛い女ではありません。
しかし、彼女は艦長から命令されればあたふたと仕事をする生身の女であると同時に、やはりヤマトの女神でもあるのです。
つまり、女神とは男達が思うことで成立する一種の抽象概念です。
思われた相手がそれを自覚して女神として振る舞うか否か、という問題が残るだけですが、振る舞わないとしてもやはり女神です。
とすれば、女神の条件は以下の2つです。
本人の自覚は関係ありません。これだけです。
心理的な距離が遠いことで男は空想し、そこに虚構概念の空想上の「女神」が出現します。
であるから、物理的な距離は関係ありません。
誰かの女になることで、「友達の彼女」となれば心理的な距離が小さくなって女神の資質を失うこともあるでしょう。
逆に、たとえ自分の娘が目の前にいても、心が遠ければそれは「女神」になりうるのです。
だから §
男とラブラブ飛行する女医の先生には「女」を感じるのに、男が不在の才女である折原真帆には「女神」を感じるのかもしれません。一方で、身近なところまで民衆を入れてしまうアマールの王女は遠い存在ではなく、苦悩する存在であり、あまり女神性を感じません。
(そして、母になろうと、はるか遠くにあり続けるスターシアはあくまで女神であり続けるのだ。距離が遠ければ心理的にも遠く感じられるのだ。そして、地球に来ることなく死んだことで、永遠の女神になったのだ)
(そして、永遠にとは、「女」としておじさまを愛してしまったサーシャと、あくまでスターシアの幻影を娘に見て「女神」を見てしまった古代のすれ違いの話なのだ。たぶんね)
……ということを、ヤマト復活編のサントラCDが届いて開いたら折原真帆のポストカードも入っていて、それを見ながら思ったのだ。しげしげと見ればあまり可愛くない才女なのだが、そこも含めて人間的に可愛いのだ。そういうデザインができる湖川さんも偉いなあ。
以上、初めてサントラCDを聴きながら。