1つ、説明を書いておく必要があると気づきました。
「て」さんよりのメッセージですが、おそらく同じような誤解は多いと思うので。
Subject: 軍事ラインとしての玉電
Keyword: 【▲→川俣晶の縁側→歴史と文化→下高井戸周辺史雑記】
URL: http://mag.autumn.org/Content.modf?id=20100515113201
名前: て
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本文:
こんにちは。
天現寺線の件で、私の理解をお伝えします。
又も、勝手な私見だったら、申し訳ありません。
戦前、城西城南の私鉄各社は、渋沢栄一資本で創立し五島
慶太の指導で合併を繰返し、戦前の東急グループを設立して行きました。
各社の目指した大ターミナルの一つが、天現寺橋です。
(結局辿り着いたのが、玉電だけでしたが…)
その後東京市の政策で、山手線内は東京市電、外郭は私鉄と線引きされ、分離されます。(最初は東京市への委託運行で、戦後に正式譲渡)
この時の政策の残骸として、品川、高輪を目指した東急池上線の五反田駅は、延伸可能な様に山手線の凄く上にあります。
(建設時は、ここで終わるつもりはなかった)
また、都電荒川線の前身の王子電鉄も、この政策で吸収されました。間違いがあったら、申し訳ありません。
さて。話をあらためて説明すると。
現象としての以下の点は私の前提です。
- 私鉄各社には山手線内へ進出したい意志があった
- 天現寺橋はその際の終点の1つであった
話はここから始まります。
ここでこちらが持っている疑問は、以下です。
- 終点として他のどこでもない天現寺橋が選ばれているのはなぜか
- 京王の社史などでは、敗北の歴史は後悔と共に綴られているが、天現寺線に後悔のニュアンスをほとんど見ないのはなぜか
だから、「目黒の火薬庫を当て込んで路線を造ったが、火薬庫が移転してしまったので、もうどうでもいい」という解釈が仮説として出てきたわけです。もし、ドル箱の路線が奪われたら、もっと後悔の言葉があっても良いような気がします。
余談 §
実は先の文章で前提の説明をはしょったという、若干の後悔もあるのですよ。いちいち前提を書くことは面倒だったので。