A君は考えていた。
僕の賢くてクールなアイデアを発表したい、と。
しかし、そこには1つの問題があった。
もしも、世界がみんな悪人で、他人の素晴らしいアイデアを妬んで意地悪してきたら嫌だな、と思うのであった。殴られるのは痛いので嫌である。
もちろん、そのように考えた時点でA君は既に負けている。画期的なアイデアなど、そう簡単に出てくるわけがない。A君の考えたアイデアが実は凡庸であり、誰もが考えたことがある初歩的なアイデアに過ぎない可能性は高い。実は、それを自信たっぷりに発表すれば叩かれるのは当然のことなのだ。とっくに反例も反証も揃っているのだから、自説を押し通せる可能性は低い。
しかし、そういうA君の前に、とある宣伝が流れた。
「アバターもえくぼ! さあ、君もネットの世界で仮想人格を使って新世代コミュニケーション!」
そこで、A君ははたと気づいた。
そうだ。仮想人格だ。
A君が自分の名前で発表したら、A君が叩かれるかもしれない。叩かれないと分かってから、実は……と正体を明かせば良いのだ。
万一叩かれても仮想人格を叩くだけでA君は痛くないはずである。
そこで、さっそくA君はアバターと称する仮想の人物を作成し、そこに仮想の人格を吹き込んだ。
「軽くテストでもしてやるか」
A君はアバターを使い、ネットの世界に出歩いてみた。
ミニゲームで遊んでいると、男が話しかけてきた。もちろん男もアバターだ。
「なあ、にいちゃんコインわけてくれへんか。ゲームですってしまったんや」
コインとはアバターが使う通貨で、ゲームに勝つと増えていく。だから、A君もそれほど多く持っているわけではなかった。だが、男はしつこく絡んできた。
「なあ、いいだろ。また勝てば手に入るんだしさ」
「やめろ。しつこく他人につきまとうのは利用規約違反だろう」
そこに入ってきた凛々しい若者がA君を救った。
彼は警備隊と名乗った。ボランティアでネットの世界を巡回しているという。
「ネットの世界もいろいろ変な奴がいるからね。僕らが頑張らないと安心してみんな遊べないんだ」
正義の味方みたいなものか、A君は納得した。
「良かったら僕らの事務所も教えておくよ。何かあったらそこに逃げ込めば大丈夫。誰かが守ってくれるよ」
そして警備隊の男とA君は事務所に瞬間移動した。けっこうコインを消費する大技だったが、警備隊の男は気にもしないで使った。
そしてA君は事務所に詰めていた警備隊の男女と意気投合した。
正義感もあり、陽気で、しかも多くのコインが一般利用者から寄付されていた。それでいて、ボランティア活動であり、無償奉仕が原則だった。仕事で管理している管理者とはそこが違う。
まさに正義の味方と呼ぶにふさわしい組織だった。
A君は自分も警備隊に志願してメンバーになった。仲間は歓迎してくれた。
最初は、見習いとして仲間と一緒に巡回したが、すぐに一人前と認められて1人で巡回できるようになった。かっこいい警備隊の制服を見ると、声援が飛んできて気持ちが良かった。
やがて、状況の変化が一段落するとA君は自分のクールなアイデアを思い出した。
そうだ。尊敬される警備隊のメンバーとして発表すれば妬まれていじめられることもないだろう。
そして、A君は堂々とそれを発表した。
画期的で斬新なアイデアと堂々と胸を張った。
しかし、それは何十年も前から繰り返し誰かが提案しては上手く行かなかった定番のアイデアでしかなかった。誰もが思いつくが、上手く行かず定着しなかった試みばかりだったのである。
だが、A君はまだ気づかなかった。
必死に周囲の人にアイデアの素晴らしさを説得しようと追いすがった。
だが、こう言われてしまった。
「やめろ。しつこく他人につきまとうのは利用規約違反だろう」
それでもA君はやめなかったので、警備隊のメンバーからも追放された。警備隊のかっこいい制服も取り上げられた。アバターでネットの世界を歩くだけで、「あのバカだ」とみんなが指さして笑うのだった。
そしてA君は気づいた。
「ああ、心が痛む」
本名を明かさず仮想人格でネットの世界に入ったはずなのに、心が痛むのだった。
A君はパソコンのスイッチを切ったが、もう遅かった。すぐに、A君の本名が突き止められ、過去の多くの行為の実績と合わせてまとめサイトまで作られてしまった。
街を歩くと、しばしば「あの男」という感じで指さされることがあった。そのたびに、A君はズキッと心が痛んだ。
「痛いのが嫌だから仮想人格を使ったのになぜだ!」
(遠野秋彦・作 ©2010 TOHNO, Akihiko)