「というわけで、感想の続きだ」
「まだ続くのかい」
「はたと気付いたのでね」
気付いたこと §
「気付いたことってなんだい?」
「この映画は、宮崎吾朗監督作品である」
「うん」
「宮崎吾朗監督の作品を見るのは初めてである」
「ゲド戦記は見てないって言ってたよね」
「そうだ。だから、基本的に初めて見る監督の作品であるというスタンスで見た。去年は実写アニメを問わず年間約50本ぐらいの映画を見たがそのうちの多くが初遭遇監督作品だ。そういう意味で、宮崎吾朗監督作品を初めて見ることはとりたてて特別なことではない」
「それは、宮崎駿の息子の監督作品であると意識していなかった、ということ?」
「おいらは、少女が信号旗を掲揚する映画を見に行ったのであって、誰が誰の息子であるかは意識していなかったし、内容的にも意識する必要は何も感じなかったよ」
「でも、同じジブリ作品だろ?」
「ジブリっぽさは意識したが、ある意味でスタッフが同じなのだから当然だ。しかし、それ以上踏み込む必要は無かった」
「そうか。でも、そんなことをいちいち説明する必要があるのかい?」
「うん。ある。なぜなら、もう一歩踏み込むと親子のアイデンティティのようなものが見えてくるからだ」
「雑想ノートにコロッケにソースをかける宮崎駿が描いてあったから、コロッケつながりってこと?」
「それもあるが、もう1つ気付いた」
「なにそれ」
「特殊技能を持った強い女性が脇役として存在すること」
「左官屋の娘だね」
「宮崎駿作品でも実はこのパターンが頻出する。カリ城の峰不二子はけしてヒロインでもないし、お色気で男をたぶらかすだけの女でもない。銃を撃ちまくり、ロープを投げて、単車で走る。最後はカメラマンと一緒に地下に突入だ」
「うん」
「モンスリーもそう。ヒロインじゃないけど、戦闘のプロフェッショナルだ」
「他には?」
「クシャナも同じ系譜だろう。ラピュタならドーラかあるいは親方のおかみさんだ」
「うーむ、あのおかみさんも、意志が強そうだよね」
「でもヒロインじゃないんだ」
「他には?」
「魔女宅のオソノさんもそうだろう。紅の豚でも、フィオがそのポジションかも知れない」
「ジーナがヒロインで、フィオはしょせん脇役ってことだね」
「もののけ姫だとエボシがその立場に来る」
「かなりヒロインに近いポジションだけどね」
「でも、一応はサンがメインヒロインだ」
「ハウルだとどうなる?」
「荒れ地の魔女だな」
「婆さんだぞ」
「婆さんの映画だから婆さんでもいいんだ」
「ぎゃふん」
「ポニョになるとリサだね。メインヒロインはあくまでポニョだから」
「なるほど」
「そういう流れからすれば、違う世界を描きながらもさりげなく同じモチーフを使ってしまうあたりが、やはり親子のアイデンティティなんだろう」
「そうか」
理事長問題 §
「たぶんね、あの理事長は宮崎吾朗監督の分身なんだ」
「どうして?」
「ああいう大人になりたいってことなんだろう」
「子供が学校をエスケープしていると喜ぶ大人に?」
「だからさ。偉大すぎる父親や、クレムリンと言われるジブリの組織からエスケープしたい気持ちはたっぷりあるんだろう。というか、たまにエスケープして息を抜いていたと思うぞ」
「わはははは」
「しかし、そうやって息を抜きながらもやることはやらねばならない。その一点に価値を見出すわけだ。子供達は、古い建物を修復して綺麗にした。何か新しいものを作り上げたわけではないが、1つの大きなことをやり遂げたわけだ」
「それは重要なこと?」
「そうだ。今の世の中、何でもかんでも新規にゼロから作れるわけじゃない。新規にゼロからもっといいものが作れると思い込んだ世間知らずの若者も多いが、世の中はそれほど甘くない。人間の質がどんどん落ちてる上に、若者は経験不足がお約束だ。既に存在する王国を存続させる中興の祖であろうとすることも、実は難しい挑戦だ。新規にゼロから作るのとはまた違った難しさがある。既存の資産を活かして解決するのはクリエイティブさも必要だ。もちろん、過去の遺産にあぐらをかくことも容易だが、そんな安易な態度はあっさりと崩れてしまう」
「宮崎駿とは違うってこと?」
「おそらく、宮崎駿の理想像はポルコないし耳すまの爺さんだ。道楽に生き、1人でいる。少人数の理解者だけいればいい。あとは見所のある若者を見ていることができればそれでいい」
「宮崎吾朗監督は?」
「理事長のポジションから考えれば、たくさんの人が下にいて、彼らの生活を維持しなければならないという立場だ」
「たくさんの人の生活を支える義務を背負った難しい立場だね」
「だからさ。たぶん、宮崎駿とか鈴木プロデューサの世代は自分たちでジブリを作ったのだから、失敗したら無くなってもいい、という気持ちはどこかにあるかもしれないけれど、第2世代である宮崎吾朗監督から見える世界は違うんだ。偉大すぎる遺産を受け継いでも、それを浪費して終わることはできないんだよ」
「どうしてそう思うんだい?」
「実はこのへんの問題は大学生ぐらいのときに考えていたんだよ」
「えっ?」
「ウルトラセブンのような偉大な作品があって、改めて何かを作る価値はあるのだろうかってね。縮小再生産なら意味は無いし」
「結論はどうなの?」
「『今』の人に向けた『今を生きる人』による作品はやはり必要だろう、ということだ。いかに昔の作品が偉大であろうと、それは別の問題だ」
「それで?」
「実は昨日、テレビでウルトラの新番組を見たよ。過去の映像の再編集番組だったが、ウルトラマンゼロが『セブンの息子』だといいながら出てくる。しかも、ゼロはレオに鍛えられている。レオはかつてセブンに鍛えられたんだ」
「偉大な親父を持った息子世代の話があってもいいわけだね」
「キン肉マンII世も同じことが言えるけどな」
「息子世代であろうと、彼らが直面して乗り越えるべき現実はドラマであるってことだね」
「そうだ。しかも同じでは無い」
ゲド戦記問題 §
「ゲド戦記は見てないそうだけど、それが問題なの?」
「ゲド戦記は見てない映画だから、間違った解釈かも知れない」
「その点に気をつけて聞くよ」
「まず、宮崎吾朗監督のゲド戦記については悪評とトラブルの話しか聞いていない」
「うん。原作を分かってないという話だね」
「そこだ!」
「どこどこ?」
「だからさ。ゲド戦記の時代のあとで、おいらは映画をたくさん見た。その結果学んだことは、原作に忠実な映画ってのは欠陥品の同義語だってことだ」
「どうして?」
「驚きが無かったら、見に行く必要が無いからだ」
「原作通りなら映画館に行って見る必要が無いってことだね」
「そうだ。だから、原作通りに作らないことは、ある意味で映画のスタートラインでしかない。そのことは、実は何ら問題では無かったのだ」
「うーむ」
「その点では、実は宮崎駿自身がいい前例になっている。未来少年コナンとか、もう本当に原作無視でぶっとんでいるぞ。でもそれで評価が悪い訳ではない」
「確かに、原作無視で有名な宮崎駿だ」
「ゲド戦記の場合、実は原作に思い入れが深すぎたり、映画というものを分かっていない人たちが周囲に騒ぎすぎたのではないか、という懸念がある」
「宮崎吾朗監督の問題というよりも、周囲の問題?」
「かもな」
「その意見をどうやって証明する?」
「アニメーションの演出家はずけずけと悪口を言い合うのが基本だ。その点を踏まえれば、宮崎駿のゲド戦記評低いのもそういう定番の意見とすれば別にそれだけの話だ。批判されるべきネガティブな要素はコクリコ坂にも山ほどある」
「それで?」
「少し距離を置いて見ている立場からの以下の評価が気になった」
(WikiPdiaより引用)
- 押井守は、「初監督でこれだけのものが普通の人に作れるだろうか? 合格点を与えていいだろう。次は本当の父殺しの映画を作るべきだ。」と評価した[12]。
「わははは。それで、コクリコ坂は父殺しの映画になっているのかい?」
「おそらくなっている」
「どうして?」
「実は、宮崎駿の企画の覚書と比較してみると、その内容を忠実に辿っているように見えて実は決定的に裏切っているからだ」
「どういうこと?」
「覚書では、2人がタグボートで帰還するところで2人の心が変化して決まっているのだが、実際の映画ではむしろ電停で告白で心が決まっているように思える。タグボートでの帰還は、単に物語を終わらせるための儀式でしか無い。覚書に見られるような特別な情感はあまり無いように思える」
「でも表面的には忠実だよね」
「そうだ。書かれたことの多くが1つ1つ忠実に映画に取り込まれている。舞台は横浜だし、タグボートも出てくる。でもだからこそ殺傷力があるんだよ」
「えっ?」
「父を殺せる力があるんだよ」
「見せかけで油断させて本質でぶすっと刺すわけだね」
「だからさ。これは宮崎駿映画の亜流に見えない。宮崎吾朗監督作品に見えるわけだ」
まとめ §
「それで結論は?」
「そうだな。魔女は血で飛ぶが、映画監督も血で飛ぶみたいだな」
「似た者どうしってこと?」
「似ている部分もあるが、別の人格だ。方法論も違えば描くことも違う。それが映画監督をやるってことだ」
「どういうこと?」
「映画監督は、スタッフ全員がそこに行けるように行き先を明示する立場だが、他人と同じ場所を示していてはダメなんだ。だから父親とは違う場所を行き先として示しているんだよ」
「違う場所を指し示す血が継承されているってことだね」