2014年12月13日
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続・今更浮上する明大前駅移転の謎・それは本当に帝都線乗り換えのためか?

Written By: 川俣 晶連絡先

 本日、広尾の都立図書館で見ることが出来たのは以下の3つです。

  • 最新世田谷區明細地圖 / 都築庸二/製圖 / 東京日日新聞社 , 1937.4
  • 経堂 / 大日本帝国陸地測量部 , [1937] ( 一万分一地形圖 ; 東京 7 東京西南部11 )  昭和4年測量 昭和12年修正 仮製版
  • 京王電気軌道株式会社三十年史 / 京王電気軌道株式会社/編 / 京王電気軌道 , 1941

 1つめは、京王の松原駅と帝都線の明大前駅が描かれていますが、京王の明大前駅が描かれていません。

 2つめは、京王の松原駅が描かれていませんが、帝都線と京王の明大前駅は描かれています。

 3つめは鉄道の詳細に関する記述は一切無く、駅名の一覧や路線図すらありませんでした。ただし、別の問題を提起しています。それについては、また後で説明します。

 現時点ではまだ地図の解釈に対する即断は避けます。地図にはミスがあり得るからです。

何を共同利用したのか? §

 京王電気軌道株式会社三十年史には帝都線に関する記述はほとんど出てきません。当時は別会社なので当たり前ですが。

 年表にやっと記述を発見しました。言っていることは以下だけです。

  • 昭和10年3月11日に、明大前駅を共同利用開始した。連帯輸送を開始した。

 この記述は戦後の電鉄三十年史、五十年史の年表の記述とほぼ同じです。典拠はたぶんこの本だと思います。

 ちなみに、連帯輸送に関しては省線を始め幅広く多くの会社とやっているので特別ではありません。

 戦後の電鉄三十年史はp43で【連絡を便利にするために駅を移動させた】【両駅が上下で連絡するようにした】と記述していますが、これは事実誤認と推定されます。地図を見る限りこの当時の両駅は上下で重なってはいません。ではなぜ誤認したのか。その理由は【明大前駅を共同利用】という記述にあるのではないかと気づきました。実際には駅の施設を共同利用してはいなかったと思われます。駅舎もホームも独立していた思われます。

 では施設を共有していないとしたら何を共同で利用したのか?

 これが昭和初期の明大前のミステリーだと思います。

もう1つのミステリー §

 もう1つのミステリーに気づいてしまいました。電鉄三十年史の駅の経歴一覧では昭和10年2月8日に共同使用となっていますが、年表では昭和10年3月11日となっています。同種の矛盾は五十年史にも見られます。

感想 §

「コピーもらってきた?」

「最新世田谷區明細地圖だけ」

「なんで他のはもらわなかったの?」

「コピーの受付が16時半までだったから。その時間に間に合わなかった」

「なんで?」

「いや、図書館そのものは17時半までで、17時半に間に合えば十分だと誤認して行ってしまったのだ」

「ダメじゃん。で、共同利用の謎に何かアイデアはある?」

「駅名……じゃないかな。明大前という駅名を共同で利用した」

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