2015年04月17日
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永福町研究の第1級資料か、中川一政の【永福寺雑記】

Written By: 川俣 晶連絡先

「別件で永福町の所沢街道を追求しているうちに、徐々に【永福寺雑記】は凄いと分かってきた」

「どれぐらい?」

「芦花公園研究の【みみずのたはごと】にも匹敵するだろう」

「どんなことが書いてあるんだい?」

  • 養魚場に言及がある
  • 廃道の存在を示している
  • 井の頭線の明大前のトンネル(実際には切り通し)の土で埋められた場所がある
  • その際土を運ぶためにトロッコが使用された
  • 向かい側に見える丘に、明大グラウンドと本願寺の墓地ができた
  • 永福町に複数のアトリエ
  • 永福町の駅には所沢街道が関係しているらしい

「なかなか生々しいね」

「まさに」

発端 §

「発端はなんだい?」

「永福町の駅の改札前に、昔の永福町を説明する板があり、そこに【永福寺雑記】が少し載っていた」

永福町駅は昭和8年、帝都電鉄の渋谷ー井の頭駅間の開通(翌9年に吉祥寺駅まで延伸)と同時に開設されました。当時のことを洋画家の中川一政は、随筆『永福寺雑記』で「私の家からニ町程裏手、廃道になった檪林の中の所沢街道を出た所に駅が出来、永福町と云う名が付いた」「新しい電車が出来て東京へ出るに汗をかゝないでも済むようになった。それ迄は京王電車の下高井戸〈十町余も歩いて行ったのである。」と記しています

「どこが問題なんだい?」

「所沢街道だ」

「なぜ問題なの?」

「所沢街道と呼ばれている道は、鍋屋横町方面から所沢に向かい、永福町の駅は通らないからだ」

原典調査 §

「というわけで、原典を調査しようと思ったわけだ。永福寺雑記は実際には武蔵野日記に含まれている。そこで、武蔵野日記を調べると都立中央図書館には1927と1948の出版の版があるようだと分かり行ってみた。ところがこの2冊はどちらも昭和22年11月の出版であり、データが間違っていた。なんでも、外部から買ってきたデータで上書きしたら間違ってしまったらしい」

「なんてこった!」

「だから、確認できたのは昭和22年の版で、初版ではなかった。改版の辞が付いていたが、あえて変更を入れないで出版したと書かれているのに大きな変化は無い可能性が高い。かといって、変化していないという断言もできないけどね。ともかく、この本には旧字で所澤街道と書いてあった」

1つの仮説・【原井の頭通りイコール所澤街道】説 §

「ついでに永福町駅付近の帝都地形図の解説を読んできたが、そこに面白いことが書いてあった」

「それはなんだい?」

「井の頭通り以前には代田橋から永福町を経由して高井戸に抜ける道【原井の頭通り】があり、それが地域の主要道路だったというのだ」

「それで?」

「更に地図を調べていくと、所沢から府中に行く道があるのだ」

「府中なら永福町じゃないよ」

「いやいや。この【原井の頭通り】がそのまま【人見街道】に接続していたとすると府中まで行くのだ」

「人見街道経由、府中経由で所沢に繋がるわけだね」

「しかし、これはあくまで仮説だ」

「じゃあ廃道は?」

「この道の一部が廃道扱いではないかと思うのだ。詳細はまだ研究を要する」

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