「ちょっと気になったので改めてチェックしてみたのだ」
「どういう意味だい?」
「強い印象が残っているのに、詳細を覚えていないのだ」
「ふーん。それで?」
「映画としては短いから一気に見てしまったのだが、これは思った以上の傑作だ」
「どこがいいの?」
「いろいろな意味で歴史的な描写が冴えている、時代設定に対して無理の少ない話が展開している。というか、無理が少なくなるように時代を設定しているのだろう」
「それだけ?」
「いや、実はこの映画の視点はドラミにあるのだが、ドラミにはどのような役割が与えられているのか」
「よくできた妹じゃないのか?」
「いいや。ドラミはドラえもんの妹だが、この映画にドラえもんは出てこない。妹という属性は意味がないんだ」
「というと?」
「子供を見守る者、教育者という視点なのだ。だから、子供だけで無謀な盗賊団を作ろうとしているのを見て、ドラミはそれに参加を希望する。ドラミは見守らなければならないからだ。しかし、盗賊団を解散させようとはしない。子供が自主性を持って挑戦していることを、いきなり中止させるのは教育ではないからだ。むしろ、いろいろな支援を行う」
「それだけ」
「いいや。決定的なのは、クライマックスの危機でドラミは助けを出そうとするが、のび平らが自力で問題を解決しようとしているのを見て、助けを出すのをやめてジッと見守る。そして、自力で問題を解決した時に、ドラミはそこにいる必要性が消失して立ち去る」
「そこがいいわけ?」
「そうだ。じっと相手を見ること。問題を自力で解決できる力があるかどうか。それを見定めるシビアな目がそこにある」
「それってどういうこと?」
「だからさ。のび太とドラえもんは基本的に目線の高さが同じなんだ。でも、この映画のドラミは視線の場所が高い。実はこの映画を解釈するのは、普通のドラえもん映画を見る視点では十分ではないんだ。その点で志は高いのだが、逆に言えば分かりにくい」
「それに意味があるわけ?」
「今の視点で見るとドラミの持つ強烈なヒロイン性にゾクゾクするよ」
映画として §
「映画としての出来も良い。冒頭の未来都市も良いし、過去に飛んで最初に登場するボロボロの神社も時代性や状況を説明する良い表現だ。最初に会うのが【おしず】で、最後に飛び去っていくドラミを見ているのも【おしず】。だから最後にドラミはタケコピターで飛んでいく必要がある。【おしず】が目撃できるからだ」
「それだけ?」
「いやいや。いきなり冒頭の映像がポスターでしかないという衝撃的な映像から始まり、電車で移動するドラミの映像は、未来都市の映像としてヤマト2199の第1話の電車移動よりも良く出来てる。そして、ドラミが去った後、不味そうに食事を食べるセワシの描写もいい。これは、最後の魚を焼く描写への伏線になっている。結局、音声1つで椅子もテーブルも出てくる未来は本当に幸福なのか。美味しいものが食べられているのか。出来の悪い祖先への助け船を出しているセワシは、本当にそれだけのことをするに値する優秀な人間だと言えるのか。少なくともドラミは過去ののび平に自己解決を求めたわけで、セワシのように積極的な支援者とはいえない」
「どういうことだよ」
「結局さ。のひ平の問題は、目が悪いということだけ。何の変哲も無いメガネがそれを解決した。だからメガネを渡して後はさりげない切っ掛けを与えるだけでそれ良かったのだよ。ドラミはそれを行った。でも、おそらくセワシにそれは出来なかっただろう」
「でもさ。魚を焼いて何になるんだ?」
「だからさ。魚を焼くってことは、さりげない切っ掛けに過ぎないのだよ。それをセワシに与えようとしているのだよ」
「それを切っ掛けにして、セワシは変わるかもしれないし、変わらないかもしれないんのだね」
「そう、でもそれは映画では描かれない。結末は開かれているんだ。いかようにも考え得る」