「なぜ見に行ったの?」
「テーマは3つあった」
- 原恵一監督は歴史マニアか
- 本郷みつる監督と原恵一監督はどこが違うのか
- 豆腐小僧のリベンジマッチになっているのか
「それで?」
「上の2つはほとんど答えが出ていた。分からなかったのは最後の1つだけ」
「分かった。原恵一監督は歴史マニア?」
「たぶんYESで良いだろう」
「本郷みつる監督と原恵一監督はどこが違うの?」
「昔は藤子アニメをやっている人で、持ち味が似通っていると思ったこともあるが、ここまで来ると違いは明瞭だ」
「どこが違うの?」
「原恵一監督の方が目線が高い。やや大人向けとも言えるし、理想が高いとも言える」
「それは、原恵一監督の方が優れているという意味?」
「いいや。本郷みつる監督の方が客に寄り添った視点の高さなのだ。目線が高すぎると、客もスタッフも置いて行かれる可能性がある」
「では豆腐小僧のリベンジマッチってなに?」
「京極夏彦の豆腐小僧がアニメ映画になった時に豆富小僧になったわけだね。江戸時代の怪奇幻想についての京極妖怪的な描写が消し飛んで、ただの水木妖怪になっていた。あれは無いだろう。あるけどない。ないけどあるのが京極妖怪だ。そして、それが江戸の怪奇幻想の本質だ。そういう意味で、改めて怪奇幻想を描きうるのかというテーマ性があるのでは無いかと予感したのだ」
「で、実際にどうだった?」
「実際に怪奇と幻想は描かれていたし、作中でそれらは確かにあるとも言えるが、常にその場限りで次のシーンに進むともう無くなっている。つまり、あるけどない。ないけどある世界だ。あれは描き方として良かった」
「客観映像と主観映像が混じり合ったいるわけだね」
「そう。そこは良い描写」
「では。映画の評価はどうなんだい?」
「そうだな。面白かったが、客を選ぶ気はするな」
「どういうことなんだい?」
「上級者向けの映画というのかな。伏線のように用意された話の軸が全て不発に終わり、全く結末が見通せない。そういう意味で、【えっ? これが結末なの?】という意外性があって、映画を見慣れていればいるほど意外な感覚を楽しめると思うのだが、映画に慣れていない人は迷ってしまう可能性もあると思う」
「他には何かあるかい?」
「あのね。妹を見守る主人公の視線が、アララ山賊団で惨劇を食い止めようとするのび平を見守るドラミの視線と同じだと思った。これだけの時を経て、結局同じところに戻って来ているのだよ」
「えっ?」
「だからさ。お栄とはドラミなんだよ。そして、兄ドラえもんが今回は、父北斎としてそこにある。兄=父はけっこうダメ野郎なんだが、意志が強く自立した女性であるドラミ=お営それにも負けない強さがある。そして、浮いた話はあるのだが、その話はあまり進展しない。ドラミというキャラクターには、一応ドラ・ザ・キッドとの浮いた話はあるのだが、そのあとそれが進展したような話も無い。そもそも、原恵一ドラミ映画にはそんな話は出てこない。お栄についても、周辺に男の影は複数ちらつくが、いずれも決定的なところまでは行かない」
「なるほど。結局ドラミに行き着くわけね」
「ちなみに、この映画、本来の構想とは違う形に結実しているような気がする」
「なんで?」
「少しもやもやっとした空気を感じる。良い映画はもっと明快にスパッと終わるような気がする」
「根拠は?」
「特にない。単に思っただけだ」
オマケ §
「しかし、なんで21エモンは【車屋さん】で【そりゃ歌舞伎】なのか。それは疑問だったけれど最近ようやく分かった気がする」
「なんてこった」