「上の記事を読んでの、ただの感想文だ」
「論旨は何?」
「実は、この文章には重大なトリックが仕込まれていて、間違った結論に誘導しようとしている」
「なぜ?」
「そりゃ民主主義を否定して、個々人の発言権など無かったことにした方が有利な人達がいるからだろうな」
「ではトリックはどこにあるの?」
「問題はそこだ。実はこの文章は以下の2つの異なった問題を混同して扱っている」
「正しい結果は出さないんだろう?」
「そうだ。多数決は、正しい結果を出すとは限らない。むしろ積極的に、投票した人々の多数派の考える正しさを反映するだけであり、それが実際に正しいかは別問題と言い切っても良い」
「それは、馬鹿が集まって多数決を取っても、正解にはたどり着けないってこと?」
「そうさ。投票者の多数派が考える【正解】に収束するだけで、それが真の正解であるかは何ら保証されない」
「じゃあ、多数決なんてする意味がないじゃないか」
「いやいや。それは違う」
「なんで?」
「民主主義の多数決とは、多数派の民意の抽出であり、社会が愚かであれば愚かな結論が出るのが当然。当たり前」
「じゃあ民主主義は間違っているの?」
「そうとも言い切れない。他の方法論を使ったところで、正解が得られると言う保証は全く無いからだ。でも、いちんばんしこりを残しにくい」
「しこりを残しにくいとは?」
「結果として、何が起きても自分達のせいだ。誰かを呪う展開にはなりにくい」
「【私は反対したのに馬鹿共が押し切った】という呪いは?」
「説得のチャンスはあったのに、説得できなかったとすれば、その人にも責任はあるのだよ」
「分かった。独裁制なら、たとえ間違っても、間違った独裁者に全ての批判は集中するだけで民衆が賢くなるチャンスは奪われたままってことだね」
「民衆は自らの間違いによって、次はもっとマシになるかもしれない。そういうことだよ。民主主義は間違わないためのシステムではないよ。多数決もね。民意の多数派を抽出するためのシステムなんだよ」
「じゃあさ。投票の設問の設定で結果を誘導できるのはどう思う?」
「それを、トリックとして見抜ける力が民衆にあるかどうかで結果は変わるよ」
「民が愚かであればいくらでも悲惨な結果を招くのが正しい民主主義ってことだね」
「でも、それでも他の方法よりもマシ」
「自らの愚かさに直面できるからだね」
「そうさ。言い逃れができない問題に直面して民衆の各人が主体的に考えない限り、社会の改善はあり得ない」