2019年04月02日
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昭和50年代頃の野猿峠ハイキングコース

Written By: 川俣 晶連絡先

電子書籍京王帝国の興亡: 激動の多摩丘陵百年史の2.01版に追加した【昭和50年代頃の(野猿峠)ハイキングコース】の章の内容をほぼそのままここに掲載する。前後の期間の内容等、全文は上記電子書籍をお読み頂きたい。

昭和50年代頃の(野猿峠)ハイキングコース §

 実は本書を書き上げたとき、昭和40年代頃の状況と現在の状況の中間の状況が全く分からなかった。その間、この地域に大きな注目が集まったことはなく、まとまった記録が残ることもなかったのだ。野猿峠ハイキングコース全盛期の昭和30年頃とは異なるのである。

 しかし、ひょんなことから1984年(昭和59年)の野猿峠ハイキングコースの状況を知ることができる資料を手に入れることができた。

 それは、アサヒグラフ1984年11月9日号だ。

表紙

 余談だが、この号には日本にやってきたコアラという記事もあり、多摩動物公園のことも書かれていたので、本書との縁は深い。

 さて、これに掲載された【本誌特派 ノスタルジック・ハイク 失われた野猿峠を求めて】という記事がまさに野猿峠ハイキングコースの当時の状況を物語ってくれていた。

記事

 この記事は、【東京附近 山の旅 朋文堂 初版 昭和31年6月25日】という書籍に書かれた野猿峠の記述に沿って昭和59年現在の同じコースを歩いてみよう、という主旨のページであった。(この書籍は筆者も古書で入手した)

 簡単にポイントをまとめよう。

  • 草ぼうぼうだったり、ビニールシートが敷いてあったり、楽に歩ける道ではなかった
  • 平山城址公園は地元の人が【何もない】【行かない方が良い】というような場所だった
  • 実際に記事では、平山季重神社を平山城址公園と誤解して【平山季重神社の写真】に【平山城址公園】というキャプションを付けている。公園らしい公園はこの時点ではなかったと考えられる
  • 平山季重神社には狛犬と鳥居が見当たらない
  • 野鳥料理の店、蒲田烏山は存在していた
  • 野猿街道に、ホテル野猿の看板はあった。ただし5.5km先という数字が描かれていて、近くではないことが分かる。(実際にホテル野猿は現在のフェスタリゾート野猿であり、東京都八王子市大塚599にあって野猿峠に近いとは言いがたい)
  • 南平東地区センターは存在しないがその横の舗装道路からハイキングコースに入る階段は当時から存在している
  • 住宅地のコンクリート壁面に書かれた【ハイキングコースはこちら】という案内は当時から存在している
  • 本来の野猿峠ハイキングコースは多摩テックの南をまわる経路だが、この記者達はその道が分からず、多摩テックの北をまわるルートで進んだように思える。また、そのように進むコースの案内が掲示されていたような雰囲気もある。ただし非常に狭い道が存在していたようだ。また、多摩テック内の進入禁止の標識のある道を歩いたという記述もある。多摩テック周辺は今と違ってハイキングコースがきちんと整備されていなかった可能性がある

ブルーシート

 結局、この頃は完全に野猿峠ハイキングコースは終わっており、平山城址公園も存在せず、コースに沿って歩くことも困難であったと思う。

 では野猿峠ハイキングコースはいつ終わったのか。

 昭和39年にできた多摩動物公園線描かれた野鳥料理券付きの往復切符が手元にあるので、その時点ではまだあったものと思う。おそらく、多摩動物公園の裏門が消えた1969年(昭和44年)頃に終わったのではないだろうか。その後、徐々に荒廃が進み、1984年にはこの記事に取り上げられているような歩くことも難しいコースになったのではないか。

道無き道

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