2005年12月17日
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江戸東京博物館・「日本橋・銀座・汐留 ~メインストリートの歴史~」展

Written By: 川俣 晶連絡先

 体調の悪さと、山のように到来する用事のために、もうメロメロな日々を送っています。

 それでも、外に出ないと心が死んでしまうし、心の死は身体にも悪影響を及ぼすので、ちらっと行ってきました。

 今日は江戸東京博物館の「日本橋・銀座・汐留 ~メインストリートの歴史~」展に行ってきました。本来なら都下の歴史資料館巡りの続きを行いたかったのですが、この展示は明日で終わってしまうので。そして、このテーマは特に見たかったので。

江戸東京博物館江戸東京博物館 [300x225] [600x450] [750x562] [1000x750] [1632x1224]

 ちなみに、写真の手前に見えているのは、珍しく両国駅の突き当たりのホームに入っていた(たぶん)113系です。(111系と113系と115系の区別は上手く付けられないのです……)

「日本橋・銀座・汐留 ~メインストリートの歴史~」展 §

 これは、地図好きという観点から見ても、目から鱗の良い展示でした。

 つまり、日本橋から汐留(新橋)までの通りが、江戸時代で最も賑わったメインストリート(東海道の一部)だという視点を持つことで、いろいろな解釈が綺麗にできるのです。

 たとえば、最初の鉄道は新橋・横浜間ですが、なぜ「新橋」なのか。

 あまり皇居の近くにはしたくなかったという話があるとしても、それがずばり新橋であるという理由は、まさにこのメインストリートの一端だからと見ることができます。

 更に、なぜ旧新橋駅(汐留)が廃止され、別の新橋駅(烏森駅)が生まれねばならなかったのかという理由も分かる気がします。旧新橋駅の先は、そのまま最も栄えた繁華街に突入してしまい、そこで鉄道用地を取得することが困難だったのかもしれません。これを回避するには、むしろ皇居に近い側(大名屋敷などが多かった地帯)に向かって線路の向きをねじ曲げねばなりません。

 もうちょっと広い視野で見てみると。

 横浜方面から来た線路は、東海道よりも海側を通って新橋の方に来ていますが、ここからは逆に東海道よりも山側に位置を変えます。

 この位置変更も、日本橋・汐留間のメインストリートの存在を考えると何となく辻褄が合います。中央停車場(東京駅)が、皇居から近くに置かれる必要があるとすると、それはメインストリートの西側しかありえません。メインストリート上はおそらく用地取得に無理があり、東側では遠すぎるからです。それゆえに、新橋あたりまでは東海道よりも海側を通っていた鉄道は、そこから東海道より山側に入って行かざるを得ません。

鉄道馬車との連携 §

 当初、新橋までしか来ていない鉄道ですが、その先の新橋から日本橋までの交通手段として鉄道馬車が作られた……、という話は非常に分かりやすいですね。つまり、日本橋から始まる東海道のうち、近距離移動の多い繁華街である新橋までは近距離交通機関である鉄道馬車が、新橋から先は長距離交通機関である蒸気鉄道が担ったと見ればすっきりと分かります。

 そして、日本橋・新橋間がその後、都電の"1"系統になるというのも納得です。まさに、1番を冠するに相応しい路線です。

 ちなみに、これらの解釈が私の個人的な感想であって正しいかどうかは全く分かりません。けして信じないように!

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