魔法先生ネギま! 15
紀伊國屋書店

2006年09月22日
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魔法先生ネギま! 15 赤松健 講談社

Written By: 川俣 晶連絡先

 買った直後に、いろいろと注意力を取られることがあって水を差された感じですが。

 やはりこれは凄い。

 見所多数。

 詳細に書いていくと、長文になってしまいます。

 特に重要な部分だけ……に限っても短くなりません。

 いや~、参りましたね。

 なので、ちょっと違う話を感想として。

「心の問題」という視点 §

 ちょっと前に、同じ作品を見ても同じものを見ていないかもしれない……という話をどこかで書いた気がしますが。

 ならば私が見ているものは何か……といったとき、候補になりそうなキーワードとして出てきたのが「心の問題」です。

 「心の問題」をきちんと描いている作品こそが良い作品だという感じ方です。

 なぜ「心の問題」が重要なのでしょうか。

 日常を描くドラマは別として、何らかの非日常(地球の危機も恋愛も非日常のうち)を描くドラマは、それが非日常であるがゆえに日常を生きる我々には入りにくい部分が生じます。

 異質な世界に感情移入する切り口は何かといえは、それは「人間」ということになります。見ている我々も「人間」ですから、そこに接点が生じるわけです。

 どのような非日常、異世界、異常事態を描こうと、それに向き合う人間さえ生々しく描くことができれば、それは感情移入しうるドラマになるのです。

 その典型的な例が、安っぽい特撮を用いたドラマですね。どう見ても出来の悪いオモチャが映っているとしか見えない映画であっても、人間さえしっかりと描かれていれば、それは見るに堪えるのです。

 さて、それではここが最も重要な点ですが、人間をしっかり描くとは、どういうことでしょうか?

 単純に写真そっくりになるまでリアルに描写すれば良いのでしょうか?

 もしそうなら、実写映画は全て「人間をしっかり描いている」ということになってしまいますが、もちろんそうではありません。

 感情移入とは、外見ではなく心の問題である以上、「人間を描く」という作業が指し示すものは「心」になります。

 つまり、これが「心の問題」こそがドラマにおいて最も重要だという考え方の根拠になります。それが不完全では、感情移入がしにくいからです。

 では、「心の問題」をきちんと扱わない作品は全て駄作であり、人気が出るはずもない……という結論で終わって良いのでしょうか?

 そうではありません。実際、「心の問題」に踏み込まない作品に人気が出ているケースは珍しくありません。「心の問題」の他に何か心地よい刺激があれば、作品は人気を獲得できるのです。

 ならば、「心の問題」を絶対視しなくても良いではないか……という疑問はあり得ます。

 しかし、やはり「心の問題」は重要なのです。なぜかといえば、他の刺激に依存する人気は、刺激が切れたり刺激に慣れてしまうと、維持することができなくなってしまうからです。一方で、「心の問題」をきちんと描いた作品は、登場人物達があたかも私自身、あるいは生々しい友達であるかのように感じられるために、登場人物達が抱える問題が解決するまで興味を失うことができません。つまり、人気が長続きするのです。

 それだけではありません。明らかに「心の問題」に取り組んだ作品の方が、より深い味わいを残します。刺激だけの作品は、その場では魅力を感じられても、後から振り返って「ああ良かったな」としみじみ思うことがなかなかできません。

 具体的な事例を見てみましょう。たとえば、宇宙戦艦ヤマトTVシリーズ第1作や、ファーストガンダムは、まさに「心の問題」に正面からきちんと取り組んだ作品と言えます。両者の決定的な相違は、再編集による劇場版が作られた時、ヤマトは「心の問題」の多くが置き去りにされたのに対して、ガンダムはそれをきちんと作品の中核に据えたことでしょう。おそらく、その差は驚くほどあっけなく没落したヤマトと、未だに人気が維持されているガンダムの差として出ていると感じます。

 やっと本題に入ります。

 ネギま!も、「心の問題」に正面から取り組んだ作品と言えます。

 それも、非常に高いレベルで見事なまでに。

 たとえば、13巻あたりから千雨がネギに対して見せる態度は、とても優れた心のドラマとして成立しています。

 まず、分かったようなことを言うネギに、そんなに簡単に割り切れるはずがないだろう……と厳しく突っ込む千雨は、ネギの正直な本音を引き出します。それは、ネギがそうあろうとした自分のあるべき姿とは異なるものです。それを引き出して、かつ、きちんと受け止めて抱擁する千雨というキャラクターを配置するところが、まさに優れた「心のドラマ」そのものです。

 一方で、ネギを真剣に心配し、状況を冷静に見て、自分なりに必死に努力している千雨の「心」もそれによって浮き彫りにされます。千雨の心情は、自らを悪と偽る「偽悪者」に似ています。彼女はストレートに自分の感情を出すには、あまりに屈折しすぎています。そして、屈折の奥には紛れもなく臆病な美しい心が隠されています。ネギに向かい合った時、千雨はその心を、ちらりと見せてくれます。

 こういった描写を見ていると、本当に千雨というのは、屈折の奥に魅力を隠したキャラクターだと思います。

 他のキャラの話も書きたいのですが、余裕がないので泣く泣く諦めるとして。

 この15巻の見所は、エヴァンジェリンです。実際には、超も本音の心情を漏らして興味深いのですが、まだそれは明確になっていません。(間接的にはよく描かれている)。ゆえに、エヴァンジェリンとします。

 ネギによるエヴァンジェリンとの入浴、ディナー、そして手合わせ。

 ここで、圧倒的に大きな人生経験を持つエヴァンジェリンは、ネギの「本人すら明確に気付いていない」本音を情け容赦なくズバズバとえぐっていきます。

 これを心のドラマと言わずして何と言うべきか。

 そして、あろうことか、エヴァンジェリンはこう言います。

 「キレイであろうとするな。他者を傷つけ、自らも傷つき、泥にまみれても、尚、前へと進む者であれ。それでこそ、我が弟子だ」

 これは、達成すべき目標を持った者が、その過程で不可避に遭遇する心の痛みに対処するための人生訓そのものです。最初から自分を汚いものだと思っておけば、汚い行動を取らねばならない状況に陥っても、それによって心が傷つかなくて済みます。そして、前に進み続けろと言います。

 これだけの台詞は、そう簡単に書けるものではありません。年を取れば書けるというものではありません。前へ進むために、清濁を併せ飲む行為を行う心の強さを持つ者だけが平然と書ける台詞でしょう。

 いや、より正確に言えば、遭遇するであろう未来の困難が見えるがゆえに発揮される優しさの発露として台詞であって、真剣に相手を愛し、思いやる気持ち抜きで出てくる台詞ではないと言っても良いでしょう。

 まさにこれは、優れた心のドラマそのものです。

 そして、それこそがネギま!から味わうべき、最高にして極上のご馳走です。

 このご馳走の存在を見極めることができるか……、そして正しく味わうすべを知っているか……、それによってネギま!という作品の印象は大きく変わるかもしれません。

 しかし、たとえ人によって見いだせない可能性があるとしても、このような魅力は作品の中に実在します。

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