大人になったら何になろうか?
ヤマトの艦長になろうか?
「総員配置に付け、補助エンジン始動5秒前、砲雷撃戦容易。主動力線コンタクト、傾斜復元、船体おこせ! 補助エンジン両舷全速取り舵一杯!」
いやいや。
どうせガミラスは来ないから意味がありません。
来ても、そういう時に頑張ろうと待っている人もいますから、出番はないでしょう。
というわけで。
ガミラスも来なければ、唯一の特別な人間でもないという前提で考えると。
一応、神成(かみなり)さんというのが結論です。
神成さんとはオバQにも出てきますが、ここではドラえもんの登場人物です。以下のような特徴がある人物とします。
- ボールが家に飛び込んでくると怒る
- ボールに盆栽を壊される
- 子供から恐れられ、煙たがられる存在である
神成(かみなり)さんになるとはどういうことか? §
つまり、ネット上で子供っぽく優秀を気取る者に、コラと怒って嫌われる立場と言うことです。これはネット上の賢いつもりの子供達とどう接するかという結論です。賢さを誇示しているうちは子供であり、突っ込みどころ満載ですが、当然そのように扱われることは期待されていません。嫌われてもそう扱ってやろう、というのが私の社会的な役割なのだろうと思います。そういう障害を乗り越えて子供は本物の大人になるので。
それほど単純ではない §
しかし、よく考えるとそれほど話は単純ではないことに気付きました。
神成さんという人物をもう一度まとめ直してみます。
- 怒りを発動するための境界線が存在する
- 境界線の外側で子供が騒いでいても基本的に怒らない
- 境界線の内側に入ると怒る
- 基本的に盆栽をいじる趣味人である
- 盆栽とは、極小の世界であり、ミクロコスモスである
- 基本的にいい人である
つまり、「すぐ怒る人」という印象は間違いであり、実際は最後の最後まで怒るという行為を我慢する「すぐ怒らない人」ということです。隣の敷地で子供が騒いでいても怒りません。あくまで怒るのは、境界線を越えてボールや子供が入ってきた場合だけです。そのように、気分次第で怒らず、境界線という基準を遵守している点もストイックです。
また、扱っている趣味がミクロコスモスである点でも特徴的です。なぜかといえば、神成さんと関わる子供達は少なくとも野球というマクロコスモスをやっていて、更にのび太達は世界を救う英雄としても活躍しているマクロな存在だからです。
しかし、それにも関わらず、のび太達は怒られます。なぜかといえば、子供達にとってのマクロコスモスのサイズは、神成さんの世界に行くと極小のミクロコスモスよりも小さいからです。考えていくと、そういうことになってしまいます。
神成(かみなり)さんになるとは、本当はどういうことか? §
単に子供を叱るというだけでは不十分です。以下の条件は明確に課せられます。
- 明瞭な境界線を持ち、その外側ではいくら子供が騒ごうと無視する
- 極小サイズの趣味を持つ
境界線は誰にとっても明瞭である必要があります。その一線を越えたことが怒りを発動する明瞭な根拠になる必要もあります。なぜそのような根拠が必要なのかと言えば、子供を叱るのは大変だからでしょう。誰でもどこでも叱ることは物理的に不可能だし、不適切であるかもしれません。逆ギレした親にかえって糾弾されることもあるでしょう。
また趣味のサイズが小さいことは多いに意味があります。つまり、客観的に小さい趣味である方が、子供達の宇宙のスケールはそれ以下であることを分からせやすいからです。
神成さんとは「神成さん」という社会的役割だろうか? §
従って、神成さんの怒りは、実は怒りではないかもしれません。
いや確かにボールが飛び込んできて怒っているのでしょうが、それ以前に子供が騒いで迷惑でも怒らないわけです。
つまり、「基本はいい人」と考えられます。
そして、盆栽を壊さない工夫や、壊される前に子供を叱る対策も取れるのに、それを取っていないと考えられます。
つまり、子供に社会的な体験をさせるチャンスを与えるために、最初からあえて不利な体勢で子供達と向き合っている、ということも考えられます。
とすれば、神成さんの怒りは単なる怒りではなく「社会的な役割」です。
ドラえもんで見てしまった §
この文章の初稿を書いた後で、何気なくテレビを見たら神成さんのエピソードを放送していました。盆栽というミクロコスモスは、実は社会的な評価を受け、町内のイベントに出品されて優勝するぐらいの意味があり、そこにはジャイアンの母も手伝いに来ています。そして、子供達の総大将であるジャイアンは母によって制裁を受けるというオチでした。つまり、神成さんのミクロコスモスのスケールは、あらゆる子供を糾合したジャイアン勢力のスケールをよりも遙かに大きく、子供のマクロコスモスより大きいことが示されています。
実に印象深い内容でした。
それってどういうことだろうか? §
「それで? 具体的に言えばどうするの?」
「つまりだな。宇宙の危機は下高井戸よりも小さいということだ」
「は?」
「子供が宇宙の危機から地球を救えと叫ぶことは、スケールが小さいということだ。それよりも、徒歩圏内で完結する下高井戸の郷土史の方がスケールが遙かに大きい」
「なんか、分かったような、分からないような……」
「あるいは、最近あちこちで五月蠅い東京都青少年の健全な育成に関する条例に反対する運動するよりも、近所のマンホールの下に実は地下送電線があるのではないかと考える方がスケールが遙かに大きい」
「それってどういう意味?」
「神成さんの視点でものを考えてみることで良く分かったけれどさ。子供を叱るというのは大変なことなんだ。やらなくて済むならやらない方が楽でいいよ」
「それで?」
「だから、かなりの怒りをため込まないと叱れない。ちょっと我慢して済むなら流してしまう」
「どういうこと?」
「ため込まれた怒りには、ある種の理不尽さがつきまとうこともある」
「そうだね」
「だから、それは理屈が違うと怒りたくなることもある」
「そうかもしれないね」
「でも、やはり子供は叱られるべきなのだよ」
「そう?」
「たとえばさ。この都の条例だけど明らかにおかしい面がある」
「そうらしいね」
「でも、そういう条例があった方が良いという支持が得られるほどの怒りをため込ませるほど好き勝手に振る舞ったのはネット言論の多数派やオタク自身だろう」
「でも彼らにそういう反省は見えないよ」
「だから、彼らは子供であり、叱られる必要がある」
「そうか。ここではもう正しいか正しくないかは意味がないんだ」
「そうだ。子供は叱られる必要があり、どのような理屈を並べても意味はない」
「子供を叱るのび太のママに、のび太の反論は通らないわけだね」
「そもそも、例えばのび太が部屋を片付けないから叱られているわけだ。散らかった部屋と言う現実をなんとかせずに、理屈だけでママをファシスト呼ばわりしても通るわけがない」
「それで、君はそういう子供達を叱るの?」
「いいや」
「どうして?」
「境界線の外の出来事だからね」
「それって不親切じゃないの? だって、そういう条例反対活動をすればするほど、僕は30になっても40になってもまだ子供です、とアピールしているようなもので、それって本人には不利じゃない?」
「不利だろうね。でも、ボランティアで他人を叱りに行くのは神成さんのキャラじゃない」
「じゃあ、神成さんのキャラとしてはどう振る舞っていくつもり?」
「相手が大人であれば、一定の敬意を払う。たとえば、隣の空き地で大騒ぎして迷惑をかけない、といった一定のルールが守れるってことだ。メッセージを送っても丁寧な対応を期待して良い」
「相手が子供だったら?」
「境界線の内側に来たらそれなりに対応する」
「ってことは叱るの?」
「即座に叱るかどうかは状況によるけどね。叱られるだけの問題点が無ければ叱らないかもしれない。でも、明らかに子供に見えたら子供として扱われることは覚悟しておけよ、ってことだ。たとえ年齢が30でも40でもね」
「それって、身体は大人でも中身がそれに見合ってないということ?」
「わたしボディだけレディーってのは昔はアニメの主題歌だが、今では珍しくないってことだ。昔は夢の魔法の歌だったが、今はただの現実だ」
「ははは。夢がないね」
「夢はミクロコスモスに詰め込んで、それ以外の領域は現実そのものってのが神成さんのキャラだろう」