「頭ごなしにしからず、相手の「器」を信頼せよによると以下のような話だそうだ」
「頭ごなしに叱っていいものではないよ。ただ、いってあげるのは1つの教育だから、『わたしはこう思う』というのを言うべき。あなたが言ったことに対して、どういう反応するかはその人の器によるから。器以上のことを求めないほうがいいよ」
「これを読んでどう思う?」
「別に。関係ないし」
「もうちょっと話をしてよ」
「だって、他人が何か言ってるだけでボールが入って盆栽壊したわけでもないし」
「しょうがないなあ、茶飲み話だと思って聞かせてよ。君は頭ごなしに叱るわけでしょ?」
「神成さんになるというのはそういうことだ」
「ということは、相手の「器」を信頼してないってこと?」
「いいかい。本来、叱るという行為は頭ごなしなんだ。なぜだか分かるかい?」
「相手に対する尊重がないからかい?」
「いいや。本来、失敗は叱られる側にあり、謝罪が必要とされているが、謝罪が行われないから叱るという行為に発展するわけだ」
「謝罪しても叱られることがあるじゃないか」
「それはそうだ。叱るというのは理屈ではないからだ。それに往々にして、自分が何をしてしまったのかに対する認識が間違った謝罪はかえって相手を怒らせる可能性がある」
「ということは?」
「相手が分かってないから叱るという行為が発動するのであり、そういう意味では頭ごなしで当たり前だ。相手の理屈を聞いても意味がないからだ。むしろ、理屈を言わせてはならない。理屈の議論をしているわけではないからだ」
「理由を聞いたら、もしかしたら合理的な理由があるかも知れないじゃないか」
「その可能性を最大限に尊重するのが「器」の尊重ということだね」
「でも君は尊重しないのだろう?」
「うん」
「それはなぜだい?」
「なぜかといえば、神成さんの「叱る」とは子供に対して発動するのであり、子供の持つ器とは成長すべきものだからだ」
「それってどういうこと?」
「上の文章では、器以上のことを求めないほうがいいよ、と言っているがこれは子供に対しては冷淡すぎると思うよ」
「おいおい」
「だからさ。基本的にそういう冷淡さを回避するために神成さん的な叱るという方法論があるんだよ」
「でもさ、この文章が想定している相手は大人じゃないか?」
「身体だけはね」
「ってことは、心が子供ってパターンかい?」
「そもそもさ。制度上の大人というのは、実際には大人の居場所に入ることが認められるだけで、そこから学んで大人になる段階でしかないのだよ」
「つまり?」
「一人前の大人扱いしてはいけない、ということだ。本来ならね」
「でも、いい大人なんだからXXぐらいしなさい、とか言われるよね」
「だから、そこが本当の意味での教育の続きなんだよ」
「でもさ。大人になったらもう頭が固くなって成長できないかもしれないよ」
「そうだとしても関係ないね」
「なぜ?」
「だって、人は何歳になっても変わってしまうものだし、社会が求める成長の基準が変わるわけではないからだ。しかも、対象者はたいてい名乗らないし自己紹介もしないから、相手が何歳ぐらいかも分からないしね。子供の文章を書いてきたら子供扱いするしかないのさ」