「興味深い文章を見たので、思うところを述べてみよう」
「どんな文章?」
「おおかみこどもの細田守監督の文章だ」
[再録]自作を語る『ひみつのアッコちゃん』 「わたしの好きなアッコ」細田守 より
それに、「魔法の鏡の力」自体にも居心地の悪さを感じずにはいられなかった。もともとアッコは「魔法の力」を得た「特殊なひと」であった。観てもないのに言うのもなんだが、「アッコ」は初代のころから、「魔法の力によってひとが幸せになれる」というプロットだったはずだ。「女の子たちの夢を育」む物語の主人公としては、そうでなくちゃならなかっただろう。だが今の世の中、それ本来の象徴的機能を果たし得るとは考えにくい。「魔法」という言葉を、例えば「科学技術」という言葉に置き換えてみれば明らかである。「科学技術によって人々が幸せになれる」と信じられていた時代は、せいぜい70年代までのことであり、いま、そんなことを言う奴はただのバカである。
「これのどこに問題があるの?」
「1990年代の3期アッコについての文章だが、1990年代の文章としては正しい。科学技術も魔法も既に言葉としての力を失って久しい。だから、ひみつのアッコちゃんはそのままでは成立しがたい」
「じゃあ、問題にする意味が無いじゃん」
「ここには問題が無いだけだよ」
「どういう意味?」
「一度失われたはずのこれらの言葉に対する信頼がいつの間にか戻って来ている」
「うそー」
「原発問題で言われる『安全神話の崩壊』という言葉。あれは、安全神話が存在したという主張であり、それは科学技術に対する無批判かつ宗教的な信頼だ」
「えー」
「反原発とワンセットの自然エネルギーの活用も、同じような科学技術に対する無批判かつ宗教的な信頼だ」
「どうして?」
「大規模にそういう発電を行った事例は無いのに、それを信用してしまうのはやはり一種の宗教的信頼だよ。更に建設に何年も掛かる施設に一瞬で乗り換えられるような錯覚に支配されているのも、やはり一種の宗教的信頼だよ」
「じゃあ、魔法は?」
「そう。それが問題」
「まさか。魔法が信じられているとでも?」
「魔法なんてあるわけが無い。けれど、心のどこかで魔法を当たり前として受け付けてしまう層ができつつある感じだ」
「なぜだよ」
「おそらく、原因はゲームだと思う」
「なぜ?」
「ここでいう魔法には1つの特徴がある。ファンタジーの魔法にはたいてい強い法則性があり、あまり好き勝手には行使できない」
「なら、今時の若者の世界観だとどうなるの?」
「割と好き勝手に設定でき、発動できる感じだ」
「なぜそうなるのだろう?」
「だからさ。ドラクエなどのゲームの世界にある魔法とは、実は各タイトルで微妙に効果も名前も違う」
「たとえば?」
「FINAL FANTASYの回復魔法には「ケアル」「ケアルラ」「ケアルガ」の3つがメジャーだが、タイトルによって「ケアルダ」のようにそれ以外の魔法が存在するケースがある」
「なぜ揺れてしまうの?」
「そのあたりは作っている人がゲームバランスを見て恣意的に決めているからだろ。そして、そういう文化の中で子ども時代を過ごしてしまうとそれが染みついてしまう」
「じゃあ、彼らの世界観はどうなっているの?」
「どこかに凄い神様のような人間がいて、その人が言えばその通りに世界が動くような感じだろうな。スティーブ・ジョブズの過剰な神格化とか、最近の社会に見られる病理もそれなんだろう」
「えー」
「民主党政権の成立もそれなんだろうね。明らかに実行できない公約を掲げていたのに、それが政権を取ってしまった。神の座に着ければ、言葉が現実化するという一種の魔法を信じてしまったからだろう」
まとめ §
「まとめてくれよ」
「だからさ。引用文の最後を再掲するよ」
いま、そんなことを言う奴はただのバカである。
「つまり?」
「2012年の人間は、ここでいうところの『ただのバカ』化しているわけだ」
「まさか。人類が衰退しているというの?」
「順調に衰退中だと思うぞ」
「技術は進歩してるじゃないか」
「技術だけはな。それもどこまで続くか分からないぞ。何しろ、かなり基礎を置き去りにした進歩だからな」