「極めてプライベートな話を書くので、これはみんな読む意味が無いだろう」
「読まなくていいという意味だね」
「ただの私的なメモだ」
下地の補色 §
「それで話は何?」
「下地に補色を塗るという発想は自分の場合どこから来たのか」
「どこ?」
「そもそも、下地に補色というのは油彩の発想なのだろう……と思う。模型の世界ではあまり聞かない気がする。というか、補色は塗らない方が良いという意見もあると思う」
「モデラーとしては発想しない発想法ということだね」
「そうだな」
「でも君は、出戻りモデラーなのだろう? 美大を出たとか、そんな話は聞いたことがないぞ」
「無論だ」
「ではいったいどうなんだよ」
「油彩の経験はあるからだ」
「は?」
「話を幼稚園時代に巻き戻そう」
「えらく話が古くなったね」
「幼稚園時代に追加の子供への教育として英語や絵の教室があった」
「それが油彩だったのだね?」
「いや。クレヨンと水彩だった」
「えっ?」
「その教室は小学校に上がっても継続して存在した。そこで、絵の教室に限って自分は継続して通った。そこで、ある程度年齢が上がった段階で油彩を教えてもらった。その時点で、補色という言葉は使わないが『逆の色を下に塗る』というテクニックを教えてもらったのだ」
「まさか。この発想はモデラー由来ではない?」
「そうだな。気づくのが遅れた。気づかなかった理由は2つある」
- 補色という言葉を使って教えられていない
- 模型の塗り方として教わっていない
「でもさ。いいの? 模型の塗り方じゃないでしょ?」
「模型は立体塗り絵と割り切るなら、本質に差は無い」
「えー」
人にこだわる §
「もう1つ、自分は人にこだわっている。模型を作る場合、人の大きさを意識できない模型はダメだと断じる」
「ガ○ダムは人型なのに人の大きさが分からないからダメだってことだね」
「それは本質的にデザインの敗北だ。第1艦橋の窓から人が見えるヤマトとの大きな違いだ」
「でも小スケールの艦船で人は無理だよ」
「だから人の大きさを意識するハッチや窓が重要なのだ」
「なるほど」
「では、その発想はどこから来るのか」
「えっ? 話がそこに行くの?」
「そうだ。実は油彩に入る前、幼稚園児か小学校低学年の時代に、ジャングルジムの絵を描いて、人がいないのはダメだと絵の先生の言われた。人を描けと言われた。人はこれでも良いのだと棒人間をクレヨンで描き込まれた」
「棒人間って、身体も手足も線で描かれた人間だね」
「別に棒人間とは言わなかったけどな。でも同じ事だ」
「それで?」
「だからさ。どれほど簡略化されデフォルメされても人の有無は決定的な違いだと言うことだ。絵の中に人がいれば、いろいろなことが分かって絵に感情移入可能になる」
「なるほど」
結論 §
「だからさ。今の自分の模型の塗り方の根幹は実は子ども時代の模型には無いわけ」
「幼稚園で行われた卒園生向けかつ小学生向け絵画教室の影響が色濃いわけだね」
「そうだ。その時の先生は、おそらく美大を出ている美術のプロないしそれに近い立場の人だ。名前も覚えていないが、教えてくれたことはいくつか覚えている」
「それってどういうこと?」
「模型を立体塗り絵と割り切って、絵として描こうとした瞬間に自分のモードがモデラー仕込みの世界を離れ、アート仕込みの世界に移行していたのだ」
「アート仕込みのモード?」
「アーティストが行うモードだ。自分がアーティストだなんて思っちゃいないけどね」
「そのモードに入ると何が違うの?」
「モデラーのモードとは模倣のモードだ。模型とは模倣するものであり、いかにして塗るのかは被写体の忠実な模写によって良しとする世界だ。しかし、アートのモードとは自己表現だ。模倣ではなく、自分を表現するモードだ。従って、忠実な模倣は目指さない。それは明快に良くないこととされる。自分を上手く表現できていないからだ」
「えー。設定通りに塗るのはダメなの?」
「誰がやっても同じ塗りは、アートの文脈では不許可だ。誰の人間性も表現していない」
「ひ~」
だから §
「だからさ。模型の塗り方に2種類あるとしよう。1つは、設定や作例を忠実に模倣する塗り方。もう1つは、『あいつがこうなら、俺は違う塗り方をしてやれ』と違いを出していく塗り方。前者はモデラー的かも知れないが、後者はアート的なのだ。たぶんな」
「怖い話に帰着したね」
「そうだな。だから、自分はモデラーだと信じるなら、設定通りに色を塗ってもいいし、作例通りに作ってもいい。それは間違ったやり方では無い」
「でも、君の方法論はモデラーの方法論ではないわけだね?」
「幼少の頃に刷り込まれたアートの方法論で駆動されていたようだ。アーティストでもないのにな」
「三つ子の魂百までってことだね」
オマケ §
「だからさ。自分は精密な模型をあまり求めない。それよりも塗りやすい模型を求める」
「キットの精密さは自己表現と関係ないけど、塗りは自己表現だってことだね」
「そうだな。だから、1/1000ヤマトは肯定するがそれは精密だからではなく、組みやすく塗装に入りやすいからだ」
「かみ合わせが良くない場所があると言ったじゃないか」
「そこはそれほど重要では無い。隙間ができるキットなど山ほどあるが、ある程度は塗り次第で気にならない」
「でも気にする人もいるよ?」
「違う人種ということだ。違う人種が住む別の世界には別の価値観があり、別のルールで物事が動いているだろうが、それはそれでいい」
「ドライな割り切りだね」
「他人は他人。自分は自分。他人は自分では無いと知ることがアートの第1歩だ。違うからこそ、自分は別のことをする、という明快な目標を持てる」
オマケ2 §
「ところで、タイトルに『俺はどこから来てどこへ行くのか』って書いてあるけど、後半の話題が無いよ。どこから来たのかの話だけだよ」
「どこへ行くのか、か。難しい問題だな」
「で、行くあてはあるの?」
「自分は本来音楽系ヤマトファンだったはずだ。ヤマトのCDを集めていたはずだ。それなのに、1/1000ヤマトを買って足を踏み外した」
「それで?」
「これ以外のキットに手を出す予定はまだ無い」
「未組み立てキットの箱を増やしたくないわけだね」
「と思ったのに第3空母が箱に入っていたので、これを組んで行かねばならない。通常の解釈を超えてな」
「ひ~」
「こう塗っていこう、という構想は既にある」
「それで終わり?」
「いや、実は遠い昔に作ったメカコレの彗星帝国駆逐艦がある。これも当時としては良く作ったと思っていたが、今となっては色を足して表情を豊かにしたい」
「何か怖い世界に入り込んでいるよ、この人」
オマケIII §
「ああそうか。村上隆がフィギュアをワンフェスに持ち込んで売ったとき、自分はアート側の視点でそれを見ていたんだ」
「どんなフィギュア?」
「戦闘機に変形する戦闘美少女なのだがむき出しの性器が存在する」
「えー。あり得ないよ」
「それは表現だからありなんだ」
「は?」
「戦闘兵器にそんなものが付いているはずが無い、というのは理屈であって、表現では無い。表現とは、兵器と美少女の模型ばかり並ぶ場に対する印象を表したものなのだろう」
「君は村上隆を肯定するの?」
「村上隆が正しいか否かはアーティストでも無い自分には分からないよ」
「分からないのか」
「アート仕込みの方法論で駆動されているとは言え、自分はアートをやっているわけではないからな」