「きむらたかしさんに見せていただいた【各電車停留場設備図】には、上町から下高井戸までの各駅のホーム配置が描かれていた。計画図なので、山下停留所は無いが、前田停留所は含まれる」
「それで?」
「うん。他にもいろいろ興味深い情報が拾えた」
「どんな情報?」
七軒町 §
松澤停留所となっている
山下 §
存在せずその代わりに前田停留所が存在する
宮の坂 §
八幡前停留所となっている (豪徳寺前は別にある)
上町 §
世田谷停留所となっている
現在と同じ位置にホームがある
「問題はなに?」
「七軒町も気になるのだがね。開業時は松澤で後から七軒町になったのか。それとも、計画段階だけの名前で、開業時から七軒町であったのか」
「でも、分からないのだね?」
「松澤と表記した資料の持ち合わせはない」
「それで話はおしまし?」
「いいや本題はここから」
「どんな問題だい?」
「上町のホームの位置の問題だ。5年ぐらい前に、昭和4年ぐらいの地図で、踏切の東に駅を描いている地図と西に駅を描いている地図があって矛盾していることを言っている」
「それで?」
「踏切の東西の双方にホームがあったとすれば、表記の揺れが納得できる」
「どちらも正解で不正解ってことだね」
「しかし、このホームの配置は現在と同じだが、この配置は玉川線廃止に伴って車庫を作るときに成立したことが分かっている」
「矛盾している?」
「いや、ホーム移動2回で元の場所に戻った可能性が出てきた」
「2回移動したのか!」
「実際に古い航空写真(goog地図の昭和22年や38年)を見ると、現在の車庫の位置にホームがあるにも関わらず、現在と同じ位置にホームの痕跡的なものが見える」
「でも仮説だろう?」
「しかし、同じ問題を扱っている人はいた」
「開業時の形に戻ったというのが正解のようですって、君と言ってることが同じだよ」
「しかし、見ている資料が違うので、おそらくこの仮説は正解なんだろう」
「それが結論だね」
「その通りだ。しかし、1つだけ疑問は残る」
「疑問というと?」
「2回目の移動は玉川線廃止のときに車庫を作るためだった。ならば1回目の移動はいつで理由はなんだろう?」
「何か仮説はあるの?」
「昭和14年の地図でも表記に変化が無いので、太平洋戦争開戦までは同じだった可能性がある。japan_city_plansの地図でも同じ。しかし、終戦直後の昭和22年では移動済み。戦争中に移動した可能性がある」
「つまり?」
「戦災でホームが燃えて、急造のホームを現在の車庫の位置に作ったのではないだろうか」
「それが仮説だね?」
「そうだ」
「それはどの程度正確?」
「分からない。地図は嘘をつくからね。それにただの想像に正確さなどない」