以下はハイキングの歴史【改訂版】: 登山、行軍、そして探勝の2.03版の抜粋です。全文は同電子書籍をお読み下さい。
ハイキングの歴史【改訂版】 ~登山、行軍、そして探勝~ (立ち読み版) §
川俣 晶
御注意; 本書は独自に調査した結果をまとめたもので、公式な情報を記したものではありません。
まえがき §
(略)
利用する文献に関する補足 §
【十五年戦争下の登山―研究ノート】によれば、その書籍の筆者が確認した範囲で日本で最初にハイキングという言葉の使用した書籍は【山は誘惑する : 放送山の講座】(大正10(1921)年7月 清水書店)であろうとしている。これはその年か前年に行ったNHK(JOAK)の放送をまとめた書籍だそうである。
2番目は、【キャムピングの仕方と其場所 鉄道省編】(実業之日本社 大正15(1926)年6月5日)であろうとしている。
この2冊は、特に重要なものとして本書では重視している。
このうち、【キャムピングの仕方と其場所】の方は国会図書館デジタルのインターネット公開にそのものずばり大正15年の書籍が公開されている。読者の皆さんもすぐに現物を見ることができる。
- キャムピングの仕方と其場所 鉄道省編 実業之日本社 大正15年6月5日
しかし、【山は誘惑する : 放送山の講座】については国会図書館デジタルに収録されているものの、残念な事実が2つある。
- 国立国会図書館内/図書館送信なので、国立国会図書館ないし国立国会図書館のデジタル書籍を閲覧できる他の図書館に行かねば見ることができない
- 昭和10(1935)年7月18日発行の版であり、大正10(1921)年7月発行の版ではない
大正10年版を見る手段はないかと思って探したが、【日本の古書店】のサイトで売られていたものも、【信州大学 附属図書館】に所存されていたものも、昭和10年(1935)版であった。
そこで、止むを得ず本書では、この昭和10年版の内容を大正10年に出版されたものと同じと見なして考察と解説を行う。
おそらく同一内容と判断した理由は、昭和10年にしては中味の書体や文体が古すぎるからである。同じ版を使用して奥付だけ差し替えて印刷したものと推定し、大幅な書き換えは行っていないものと考えた。しかし、同じ出版社なのになぜ【大正10年初版】という表記を入れておらず、あたかも昭和10年の新刊のように振る舞っているのかは分からない。
ハイキングの分類 §
ハイキングの解釈は最初から割れていて、今も割れている。
筆者が把握しているバリエーションをできるだけ列挙しよう。
ハイキング(登山系) §
ハイキングの中には事実上の登山とイコールになっているものがある。
たとえば、ハイキング関連の書籍を発行している新ハイキング社のサイトを見に行くと、いきなり以下のように書かれている。
新ハイキングでは「安全で、楽しく、バラエティーに富んだ山行」をモットーに、ハイキング講習会を開催しています。山歩きの知識・テクニックを熟練の山行リーダーが直接指導!会員でなくてもお申込みいただけます。
つまり、このサイトに言わせればハイキングは【山歩き、山行】なのである。平地を歩くという発想は微塵程もない。実際にサイトを見ると、明らかにハイキングとは言えない登山関係の項目が並んでいる。そして、登山そのものの【山行計画一覧】と、町歩きの【誰でも歩ける「さあ、ハイキング!」】の項目は完全に分離されている。どう見ても彼らがやりたいのは登山であるが、それではハードルが高いので【登山入門編としてのハイキング】を名乗っているだけと見える。しかし、ハイカーの最終目的は山に登ることではないので、全体がちぐはぐになっているようにも思える。
この傾向は昔から存在する。たとえば、昭和10年8月1日発行の【登山とはいきんぐ】創刊号には【日本アルプスハイキング】という記事が載っているが、【アメリカでは3000メートル級の山でもハイキングという言葉を使っている】として、色々な設備がよくなったので仰々しい登山ではなくハイキングとして出かけるとが良いとしているが、明らかに行き先は登山と同じである。つまり、山に登るのである。目的は山に登ることで、歩くことではない。
このタイプのハイキングは、要するに登山の簡易版である。場合によっては登山そのものである。簡易版として考えるときは、【手間がより少ない登山】と考える場合と、【より低い手軽な山】と考える場合がある。後者の場合は、低山趣味あるいは低山登山の別名がハイキングと考えられる。
また、登山の入門編としてハイキングを捉える場合がある。つまり、ハイキングで身体を慣らして、本格的な登山に備えるわけである。この場合のハイキングは、あくまで登山の予行演習ないし準備行動であり、登山という大きなカテゴリの一部を構成するもので、登山から見れば手段の一つである。ハイキングは独立した価値観ではない。
この登山系のハイキングは一人ないし少人数で行われることが基本である。それは登山という行為が一人ないし少人数で行われるからである。
ただし、例外的に登山行軍的な隊列を組んだ山地の移動活動が行われる場合がある。
ハイキング(行軍系) §
ボーイスカウト系等で見られる集団行動の訓練としてのハイキングである。リーダにより統率され、上下関係が存在するグループによって行われる。
ある程度以上の大人数で行われることが多い。
これも歴史は古く、そもそも日本にハイキングという言葉が入ってきたのはボーイスカウト経由だと言われる程である。そして、現代もこのようなハイキングが行われているらしい。なぜならボーイスカウトのボールスカウトたる理由そのものに直接関わるからだ。
しかしながら、行軍系のハイキングを行うのがボーイスカウトだけとは限らない。学校遠足のハイキングが行軍的な振る舞いになることはあるし、戦時中に推奨されたハイキングは集団行動を基本としたもので、行軍系である。単独行動は西洋的な誤った個人主義であるとして排斥されたのである。
ハイキング(健全な娯楽系) §
現在主流と考えられるハイキングである。
地方自治体等が整備したハイキングコースを歩き、自然に親しむ。
健康のために歩くことが主たる目的であり、自然と触れあうことも目的の内だ。
人数については特に決まった傾向はなく、一人で歩くこともあれば学校遠足のハイキングのように大人数で行く場合もある。
山に登ることもあるが、山に登ることは目的としていないので、登らない場合もある。
自然に親しむことを目的としているので、自然の少ない住宅街などを歩くことは好まれない。
ハイキング(デート系) §
たとえば、雑誌ハイカー創刊号(昭和30年4月1日発行)には、【アベックコース】を紹介するページが存在する。
(ページ画像略)
昭和30年頃に人気があった野猿峠ハイキングコースは、別名をロマンスコースというのだが、ハイヒールをはいた女性まで来ているという批判的な記事も見たことがあるので、これもデートのための【アベックコース】だった可能性が高いと推定している。
おそらく、女性を連れてハイキングコースを歩き、「疲れただろう」と言いながら旅館でご休憩という定番コースが存在していたのではないかと考えている。
これは不健全な意図を健全なハイキングという名目で偽装する偽装ハイキングの一種である。
スキー・ハイキング §
スキー・ハイキングは、クロスカントリースキーに近い、あるいは同じ行為であり、スキーを履いて歩くことも滑ることも包含されるようである。歩かなくてもハイキングに包含されてしまう事例である。歴史は長く、国会図書館には【スキー・ハイキング】というタイトルの昭和10年の書籍が存在している。しかし、あまりに特殊なので本書では積極的に扱わない。
カメラ・ハイキング §
撮影を目的としたハイキングである。これも歴史は古く、国会図書館には【カメラ・ハイキング】というタイトルの昭和10年の書籍が存在している。また、【ハイキング写真術】という昭和17年(初版昭和15年)の本もあった。
(ページ画像略)
戦後にもカメラ・ハイキングに関する書籍は何冊か出版されているようで、一過性の流行ではなかったようだ。
しかし、あまりに特殊なので本書では積極的に扱わない。
(以後は2.02版で追加されたものである)
ただし、カメラはハイキングの定番であったようだ。
ハイカー創刊号55ページには以下のような広告が載っていて【絶対必要品】とまで強調されている。
(ページ画像略)
また2019年9月2日に送信された【Yahoo!保険】のDM(本文中ではハイキングに言及)でも、Subjectに【はじめての山歩き。安全対策できてますか?登山中の捻挫。転倒。道迷い。カメラ破損。】とカメラ破損が捻挫、転倒などと同等のレベルの問題であることが示されている。
つまり、ハイキング/登山にカメラを持って行くことは高確率で求められていることになる。
しかし、【撮影を目的としたカメラ・ハイキング】と、【ハイキングにカメラを持っていく行為】は別物である。そこは注意して区別しよう。主従が逆なのである。
オーバーナイト・ハイク(複数日系) §
テントや山小屋を利用して複数日に渡ってハイキングを行うことをオーバーナイト・ハイクというらしい。
しかし、複数日数のハイキングをわざわざオーバーナイト・ハイクと呼んで通常のハッキングと違うものと見なして良いかは分からない。
たとえば、日本に最初にハイキングを紹介した書籍とされる【山は誘惑する・放送山の講座】は【日帰りか一、二泊程度】としていて、複数日にまたがるハイキングを特別扱いしていない。
また、【ハイクは一泊以上を原則とする】と言い切っている【ハイキングの道】という昭和11年の書籍もある。
【オーバーナイト・ハイク(複数日系)】は実はある状況ではむしろ普通のハイキングを意味した可能性もある。
しかし、【日帰り】を前提としたハイキングコース集も多い。どちらが普通であるかは微妙な問題である。
もともとは【オーバーナイト・ハイク(複数日系)】が原則であったが、交通機関の発達で 【日帰り】が可能になり、それが普通になったとも考えられる。
日数の問題は、本質ではないので、本書では積極的に扱わない。
オーバーナイト・ハイク(夜間行軍ハイキング系) §
実は夜間に歩く夜間ハイキングをオーバーナイト・ハイクと称する用法が存在する。
【オーバーナイト・ハイク(複数日系)】とは意味が異なる。複数の日付に渡ることは同じだが、この場合は夜になってもテントや山小屋では寝ないでむしろ歩く。ボーイスカウトで実践されていることがあるらしい。
単に歩く時間帯だけの問題なので、本書では積極的に扱わない。
ナイト・ハイク(夜間ハイキング系) §
オーバーナイト・ハイクと似て非なるナイト・ハイクという言葉があるらしい。これは夜景を見るために夜間山を登る行為らしい。その場合はライトなどの装備を付けて歩くことになる。
これも、単に歩く時間帯だけの問題なので、本書では積極的に扱わない。
コーラス・ハイク §
(この項目は2.03版で追加された)
ハイキング(京王帝都電鉄株式会社 非売品 昭和31年9月31日)、p9~10の【ハイキングの楽しみ方(沢田武志、新ハイキング編集長)】によると、裏を歌う【コーラス・ハイク】があるという。休憩中などで自然発生的に歌を歌い出すそうである。具体像が良く分からないので、本書では積極的には取り上げないが、戦前においてはハイカーの放歌が迷惑と問題にされたことも考え合わせると、意外と歌はハイキングの定番なのかもしれない。
採取ハイキング §
(この項目は2.03版で追加された)
上と同じ記事に、植物や動物を採取する採取ハイキングがあると書かれている。具体像がはっきりしないので、本書では特に取り上げない。
なおGoogleで検索すると一件実際の用例を発見できた。
ただし、これは【天然メイプル】【採取ハイキング】ではなく、【天然メイプル採取】【ハイキング】と区切るのが正しいようにも思える。その場合は【採取ハイキング】の用例とは見なせない。
ストーム・ハイク §
(この項目は2.03版で追加された)
上と同じ記事に、悪天候でハイキングを行うストーム・ハイクがあると書かれている。夜間行うナイト・ハイクよりも更に過激なものである。経験と体力が必要とされ、誰にでもできるものではないとされている。詳細も分からないし、天候だけの問題なので、本書では特に取り上げない。
かんじきハイキング、雪原ハイキング、スノーシュー・ハイキング §
(この項目は2.03版で追加された)
上記の【小谷村で天然メイプル採取ハイキング!】のページには、【かんじきハイキング】【雪原ハイキング】という用語も使用されている。あまり一般的ではないが、検索して見ると他に用例もあり、雪国では使われている可能性がある。また関連して【スノーシュー・ハイキング】という用語も採取できた。しかしながら、詳細が分からないので、本書では取り上げない。
担い手による分類 §
ハイキングを主要な担い手ごとに分類してみよう。
ボーイスカウト §
日本にハイキングという言葉を伝えたのはボーイスカウト経由だと言われている。
まず日本で最初にハイキングという言葉を使ったのはおそらくボーイスカウトであろう。
しかし、実際に日本に普及したハイキングは彼らの文化としてのハイキングではなかった。重要な立場を担った割にやや傍流である。
登山家 §
おそらく、ボーイスカウトに近い立場にいて、ハイキングを登山のサブジャンルとして受容した人達である。ボーイスカウトの訓練と、登山のための訓練は似た行為だったからだろう。
しかしながら、ボーイスカウトが持っていた精神面の訓練性は継承されず、山に登るため方法論の一部として位置づけられたようである。
もともと同時期に存在した低山趣味、低山登山と合流してしまったからかも知れない。
彼らはプライドが高く、割と他のハイキングを【間違ったもの】として下に見ることがある。たとえば、昭和10年8月1日発行の【登山とはいきんぐ】創刊号には【日本アルプスハイキング】という記事が載っているが、【日本アルプスのハイキングと云うと一寸異様に聞こえるし、アルプスをなめているゐるやうにもとれる】と書いて、ハイキングを登山より劣ったものとも受け取れる書き方をしている。
割と頑迷で自分たちの考えは変えない。未だにハイキングを山に登ることだと考える主張を維持した人たちもいることは既に紹介した通りだ。
政府/軍部 §
戦時下には、戦争目的にハイキングを利用しようとしていた。
彼らが主張したハイキングとは、欧米由来の【堕落した西洋の個人主義】ではなく、【皇国史観に基づく日本的なハイキング】である。集団行動を基本とし、行軍に近いものである。ハイキングから娯楽性は排斥し、精神と肉体を鍛え、集団行動を訓練することを目的とする。
鉄道 §
実は鉄道省や鉄道会社がハイキングにまつわる重要なプレイヤーとして活動を行っている。
たとえば、最初にハイキングという言葉を日本で使ったと言われる大正10年の【山は誘惑する・放送山の講座】の【キャムピングとハイキング】の章を書いたのは【東京鐵道局旅客課】の肩書きを持つ【茂木槇雄】である。
また、【歩け市民の健康路 東京市中心のハイキング】という昭和13年頃のハイキングコース集のパンフレットを持っているのだが、これの発行元は【東京市鐵道局】である。おそらく、上記の【東京鐵道局】と同じものを指しているのだろう。
そして、鉄道会社も多くのハイキングコースを用意して旅客に提案している。たとえば、【京王電気軌道株式会社三十年史】の冒頭の写真コーナーには【南多摩丘陵コース】【奥高尾縦走コース】【野猿峠越えコース】などの多くの写真が並んでいるが、これらは全て京王が独自に設定したハイキングコースである。この時代、同じ地域であってもコースを設定する者が変われば違う道がハイキングコースとして設定されるのである。その中で、ハイキングガイドを出版する出版社と並んで、鉄道会社は客の誘致のために積極的にハイキングコースを設定していた。
地方自治体 §
鉄道と並んで積極的に関与していたのは地方自治体である。
たとえば、昭和10年の【大東京と郊外の行楽 附・日帰りハイキング案内】は最初に【東京市長牛塚虎太郎下題水島芳靜著】と書かれている。東京市とハイキングの関わりは【東京市鐵道局】に限らないわけである。
それに、昭和30年頃の人気ハイキングコースであった野猿峠ハイキングコースを人気消滅後に再生してハイキングコースとして再整備したのは地域の各自治体である。たとえば東京都と日野市は【かたらいの路/南平丘陵散策コース】として一部を再生している。
ハイキングの考察と大分類 §
これらの項目は全て独立しているわけではなく、協調することが多い者達と、むしろ敵対する者達が存在することが分かってきた。
そのように考えると、おおむね三つぐらいの柱に集約できることが分かってきた。
行軍系ハイキング §
ボーイスカウト/政府/軍は【楽しい娯楽性】を支持せず、【集団行動】と【訓練】を重視する。【上下関係】も重視する。
これらのハイキングは【行軍系ハイキング】としてまとめて一つの立場と見なしても良いだろう。この立場は【娯楽】と【個人】を悪として否定する立場である。
登山系ハイキング §
登山家達の考えるハイキングは登山の一種であり、独特である。しかし、彼らは登山系のグループとメディアを持っていてかなりの影響力を持つ。
この立場は【娯楽】と【個人】を肯定するが、ハイキングを劣ったものと見なし、登山に至る未熟な段階と見なしがちである。山に登るという以外の価値観は受容していないようにも見える。
探勝系ハイキング §
鉄道関係者/地方自治体は基本的に【人が呼べて経済的恩恵があればそれで良い】という立場である。人を呼ぶための魅力として【娯楽】は積極的に肯定される。また、人数の問題はどうでも良い。お金を落としてくれるなら、個人客も歓迎である。むしろ、ハイキング特急などを運行し、個人客をまとめて集団にしてしまうぐらいである。
そうなってくると、【歩くこと】や【自然に親しむこと】もさほど重要ではない。
場合によっては【あらゆる遊興行為がハイキング】である。
このような行為は、ハイキングという言葉が輸入される前から存在していたことなので、利用者に間違ったことをしているという意識はない。
利用者の意識の上では、参拝などのハイカラな言い換えがハイキングだということに過ぎない。
ここでは、名所旧跡を訪ねる【探勝】という言葉をルーツと考えたい。このキーワードに関しては後ほど詳しく取り上げる。
出版点数から見たハイキングの歴史 §
個別の歴史に入る前に、大ざっぱにハイキングブームの時期を把握しておこう。
国会図書館サーチを使用して出版点数の変化をみることで、ブームの時期をだいたい特定できる。
ハイキング関連書籍のピーク §
日本でハイキングがいつ頃普及してブームを迎えたのかは、国会図書館サーチで「ハイキング」という言葉を含む書籍を検索することでだいたい推定ができそうだ。以下は10年ごとに区切って検索してみた結果である。
範囲 | ヒット数 |
---|
~1900 | 0 (年数未入力でカウントされた本は除外) |
1901~1910 | 0 |
1911~1920 | 0 |
1921~1930 | 15 |
1931~1940 | 434 |
1941~1950 | 181 |
1951~1960 | 523 |
1961~1970 | 386 |
この通り、1920年までの期間にハイキングという言葉は使用されていない。
1930年までの期間になると少しだけ使用された事例が出てくる。
ドッと出てくるのは1940年までの期間である。ハイキングは戦争に備えて国民の身体を強化したい国策と合致して大ブームになったものと思われる。
しかし、いざ対米戦をしていた1941~1950の期間になると戦時下にハイキングは敵性語として言い換えられ、使用例は減っていく。おそらくハイキングの用語を使用しない出版物も含めた総出版点数も減っているものと思うが、ハイキングには1つに定まった言い換えの用語は存在しないため、調べ切れていない。
戦後高度成長期になる1951-1960になると、更に多くの本が出版される。今回は戦争に備えて国策で推奨されたわけではないが、単純に娯楽として庶民に歓迎されたので再びブームになったのだろう。この動きは、その後1961~1970になると少し落ち着いていくがそれでもかなりの量の本が出ており、ハイキングは有力な娯楽として社会に定着したものと思われる。
この表から分かる通り、ハイキングは1920年代から徐々に日本国内に入り込み始め、1930年代に最初の大ブームを迎えたと推定できる。
ハイキングに先行した【探勝】小ブーム §
(略)
ハイキングの歴史的変遷 §
ここまで来て、初めてハイキングの歴史を語り始めることができる。
つまり、まず最初にハイキングを解体して、プレイヤーを個別に分離しなければ歴史は語り得なかったのだ。
たとえば、ハイキングの始まり一つを取っても、ボーイスカウトを始祖と考える登山系と日本古来から存在したと考える探勝系では話が噛み合わない。それらは、同じ【ハイキング】を語っていても同じことを語っているわけではないとまず確認する必要があるのだ。
ハイキング以前 §
ハイキングとは何か。
何かの目的に歩くことだとすれば、そんなものは人類が産まれた時から行われていたことであり、いつからあったのかを考えることは難しい。
しかし、きりがないので、本書では過去の誰かが【これがハイキングの始祖だ】と言った人物をハイキングと始祖と捉え、それ以後の歴史を考えることにしよう。
ハイキングの始まり §
最も一般的な解釈はボーイスカウトがハイキングを日本に持ち込んだという歴史である。
しかしながら、これに異を唱える書籍も存在する。
主に戦時中のハイキング書籍は、西洋由来のハイキングではない日本独自の伝統的なハイキングが存在するとしている。しかし、皇国史観に立脚して【個人主義的ではない】【秩序正しい】といった特徴を並べることが多く、具体的な始祖の名前や時期はあまり示してくれない。基本的に西洋への反発が基本にあると思って良いだろう。
一方で、近畿ハイキング案内(七星社 昭和十年七月十五日)は皇国史観とは関係ない書籍であるが、ハイキングの歴史を20世紀初期の近代ドイツのボーイスカウトから話し始めながら、それは認識不足と断じる。日本におけるハイキングの開祖は弘法大師の全国巡錫(じゅんしゃく)であるとする。また、松尾芭蕉もハイカーの元祖ではないかと書いている。
弘法大師(空海)は真言宗の開祖となる仏教僧であるから、それをハイキングの開祖であると主張するならば、どうしてもハイキングの近代的な側面は後退し、宗教的な側面が強くなる。
また、松尾芭蕉の旅もハイキングの一種だと考えるのが自然に思えるとすれば、興味深い光景が見えてくる。1段落だけWikiPediaから引用しよう。
西行500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出た。下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた。
ここで注目したいのは【名所旧跡】という言葉である。
名所旧跡を辿る行為は【探勝】に他ならない。
日本におけるハイキングの受容が【探勝】であるならば、まさに松尾場所はハイキングの先駆者である。それはドイツ由来の近代的なハイキングとは一線を画するものである。
つまりここでは以下のように考えよう。
探勝型ハイキングの始祖は(かなりこじつけ臭いが)弘法大師にまで遡ることができる。そして、松尾芭蕉は探勝型ハイキングの原形としての【探勝】を既に実践していたと考えよう。
少なくとも日本的な【探勝】は、弘法大師の時代以後の様々な人たちが行った様々な行為の恩恵を受けて成立したものである。弘法大師が日本型ハイキングを始めた開祖だと考えて良いとは思わないが、日本型ハイキングの恩恵の一部は弘法大師の活動にあることは事実なのだろう。
では具体的な年代について考えてみよう。
地域を越えて人が積極的に移動する時代は室町時代には既に到来していたはずだ。しかし、それは生きるためという側面が強く、特定の目的を持って意識的に動いたとは言いがたいだろう。しかし、江戸時代に入って世の中が安定して豊かになってくると、富士講などのシステムより一般人が長距離旅行をすることも可能になり、生活と切り離された純粋に移動のための移動が可能になったものと思う。
つまり、松尾芭蕉の時代には、既に探勝型ハイキングの原形は成立していたと考えて良いだろう。もちろん、これをハイキングと呼んで良いかは分からない。しかし、探勝型ハイキングの原形は既に成立していたものと考える。
しかし、まだ【ハイキング】という用語は到来していない。
探勝小ブームの到来 §
ネットを検索すると、【探勝ブーム】なる用語を使用しているのは事実上、嶋村初吉のブログだけらしい。探勝ブームがあったという解釈は彼の個人的な見解であろうと考える。しかし、彼が行っている以下の主張は興味深い。
- 探勝は江戸時代からブームである
- 朝鮮でも探勝ブームはあった
探勝という振る舞いそのものが明治期のものではなく、日本独自のものでもないとしたら、どこまでハイキングのルーツが深くなるのか想像もできない。
しかし、ここで興味の対象になるのは、昭和10年頃のハイキングブームを前にして起きた探勝ブームの実態だ。これはいつ頃からあったものだろうか。
すると、国会図書館デジタルで郊外探勝その日帰りという明治44年の本が見つかった。この本は、大正3年に再版されている(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936569)。かなり人気があったのだろう。この本は郊外に日帰りできる行き先を紹介する書籍だ。しかし、目的はどちらかといえば物見遊山である。【もものはな】【おまいり】【うめ】【海水浴】【ゆさん】などの文字が並んでいる。君も行こう、という主旨は伝わってくるが、自分の足で歩いて自然に親しもう……といった主旨は伝わってこない。
おそらくは、これこそが探勝系ハイキングの原形であろう。
休みの日に鉄道に乗って郊外に出かけてそこで過ごすのである。
そこで、自然に親しみ、山々を歩くこともあるだろうが、それが目的ではないのである。目的は探勝であるが、遊興娯楽と考えて良い。物見遊山と考えても良いだろ言う、何しろ、ずばり【ゆさん】と書いている項目まであるのだ。
そして、昭和10年代に至ってもほぼ同じような主旨の【餘暇善用市民ハイキング】のような本が存在し、ハイキングを名乗っているのだ。
これが特殊な事例ではないことは、他の類似探勝本が存在することからも分かる。
たとえば、大正10年の多摩川と深大寺 : 附・西郊探勝之栞は、寺社の割合が多いことを除けば雰囲気は大差ない。また、京王の路線図(府中まで)が冒頭に載っていて明らかに【鉄道会社】が担う探勝系ハイキングである。
また、主要な行き先ではないが個々の月の遊びとして一月には【吉田園ノ天然氷滑リ】(つまりスケートのことである)と書かれている。吉田園とは下高井戸にあった純然たる遊興施設で池を見ながらお食事ができる施設であった。特に長距離を歩くことなく美しい池を見るのは【ハイキング】とは言えないが、【探勝】ではある。昭和10年代に入って、このような行為も【ハイキング】と呼ばれるケースがあるので、そのような偽装ハイキングのルーツはこのような世界にあるとも言える。
しかしながら、探勝行為は明治時代にはまだハードルが高かったものと思う。誰でもそう簡単に実践できるものではなかったはずだ。一般大衆は余暇が少ないし、交通機関もまだ不便だ。これが変化するためには、鉄道網の普及や、普段から電車に乗って通勤するライフスタイルの普及が必要とされる。
鉄道は、第1次大戦の好景気に乗り、どんどん路線を延ばしていった。
また、多くの者達が関東大震災を契機に郊外に移り住み、そこから都心に電車通勤するライフスタイルに切り替わっていった。
彼らは休日になれば都心に向かう電車ではなく郊外に向かう電車に乗って郊外の遊興地に出かけていく。そこで待っているのは、遊園地、ゴルフ場など様々だ。そして、ハイキングコースも待っている。当時のハイキングコースは言った者勝ちであるから、どこを歩いても良い。コースの整備を待つ必要はない。
つまり、探勝のハードルが下がって大衆化していく過程で、探勝をハイキングと言い換える行為が流行ったのではないだろうか。これは厳密には正しくない。本来のハイキングとは、探勝とは異なる行為だからだ。しかし、大衆の流行は本来の意味など斟酌しないものである。
ではハイキングという言葉はどこから来たのだろうか。
近代の成立とハイキングの輸入 §
近代の成立に伴い、身体を鍛え、自然に親しむことの重要性を強調する思想が生まれたらしい。これに伴って、様々な文化が生まれたらしい。ハイキングもその一つということになる。ちなみに、日本で言えば文学者の帰農ブームなどもこれに該当するのだろう。たとえば富徳芦花の芦花公園や江渡狄嶺の三蔦苑がそれにあたる。彼らは郊外に住み農業を行いながら文筆活動も行っていた。
さて、用語としての【ハイキング】を日本に持ち込んだのはボーイスカウトだと言われている。最初にハイキングという言葉を日本で使ったと言われる大正10年の【山は誘惑する・放送山の講座】の【キャムピングとハイキング】の章でも、【東京鐵道局旅客課】の著者の手によって由来は【ボイスカウツの人々】とはっきり書いているので、おそらく用語はボーイスカウト経由で最初に日本に来たのは確かなのだろう。
しかし、用語を最初に幅広く国内に紹介したのはボーイスカウトではなく、鉄道関係者だったことになる。その理由は良く分かる。ボーイスカウトは言葉を広めるために存在しているわけではないのだ。それに対して鉄道関係者はできるだけ客を呼び込むために宣伝を行う必然性を持っているわけである。
しかし、この時はまだハイキングはキャンプのオマケのような扱いであった。
そして、ハイキングはここで三つに分裂していく。我が道を行くボーイスカウトの行軍系ハイキングはそのままとして、その他に登山系ハイキングと、探勝系ハイキングが成立してしまうのである。
だが、【山は誘惑する・放送山の講座】の【キャムピングとハイキング】の章で解説されているハイキングの最初には、【ハイキングを理屈抜きに単に歩くことであると理解している人が多いようだ】としている。このことから、以下のことが分かる。
- 大正10年の時点でハイキングを知っている人は割と多い
- 単に歩くことだと理解している割合が多かった (これは誤解である)
この認識は重要である。
日本に入ってきたばかりのハイキングは、知名度の割に正しく理解されなかったのである。
従って、誤った解釈のまま暴走していく勢力と、私は正しいハイキングを知っていて啓蒙しようというおせっかいな勢力が必然的に分裂して衝突していくことになる。
ハイキングは日本に入ってきて普及を開始した時点で分裂の芽を孕んでいたのだ。
キャンプのオマケとしてのハイキング §
大正10年の【山は誘惑する・放送山の講座】の【キャムピングとハイキング】の章で解説されているハイキングとは何か、キャンプとは何が違うのかを詳しく解説しよう。
まず集団的なキャンプが存在することが前提である。そこではどうしても相互にスポイルする関係になると述べている。これを回避するために、班を単位に少人数で分かれて小テントを持って森に入り、一泊から二泊程度のキャンプ生活を続け、そこで班長から直接の訓練や指導を受けることをハイキングとしている。
つまり、やはりキャンプである。
本格的なキャンプとの違いは規模である。
キャンプの中でも少人数短時間で行う小規模キャンプがハイキングという位置づけである。
しかし、これはあくまでボーイスカウト的なハイキングの説明であり、それがハイキングだとは主張していない。
ドイツで行われいるハイキングはテントや青年宿泊所を使用して以下の2つの目的が主になっていると説明している。
そして、外国の真似であっても良いことであれば真似をして良いとして、テントを携行しないハイキングであろうとも、ハイキングを生んだ最初の精神は忘れたくないものだ、と説明文を締めくくっている。
また、【真に日本的なハイキング方法の生まれる迄は採長補短です】と述べ、【明治大帝五箇条の御誓文の主旨はそこにあると考えております】としている。
これは非常に重要である。
なぜなら、これから出現する様々なハイキングの要素をいくつも予見しているからだ。
- 欧米とは異なる日本型ハイキングの出現
- 国策に協力し遊興を排する鍛錬型ハイキングの出現
- 天皇と直結する皇国史観との連動
しかし、純粋な遊興目的のハイキングに関しては言及していない。それはこの本が書かれた時には存在していたのだろう。
登山系ハイキングの成立 §
この時期、最もストレートに本来あるべきハイキングを受容したのは、ボーイスカウトであろう。そもそも、ハイキングはボーイスカウトのものである。
次にストレートに受容したのは登山家だろう。しかし、理由は分からないが登山家達はハイキングを登山の一種として受容した。そして、ハイキングは自分たちが扱うものであり、一般大衆への啓蒙も行うべきという使命感も抱いたようだ。登山界がどのようにハイキングを受容してそのような状況に至ったのかは調べていない(こちらの興味の対象外である)。
おそらく、低山趣味(低山登山)という概念とハイキングが合体して、軽登山=ハイキングという図式が成立してしまったのだろう。
その結果として、たとえば登山系の書籍を多く扱っていた出版社の朋文堂が【ハイキングの手引】のようなハウツー本を始め多くのハイキング関連書籍を出版するわけである。ちなみに、国会図書館デジタルにある【ハイキングの手引】は昭和9年6月5日の改訂版である。序文を読むと原稿を書いたのは昭和2年で最初の版が出たのは昭和8年らしい。昭和10年頃のハイキング書出版ブームよりもずっと早い。
ただし、目次を見ると天幕(テント)を扱った割合が多く、ボーイスカウト的な正統派ハイキングの解説書であって、ハイキングを登山のサブジャンルとして捉えているような差別的な書籍ではない。
しかしながら、ハイキングは登山の一種であるという解釈も根強い。
たとえば、【十五年戦争下の登山―研究ノート】では太平洋戦争時、登山家の連合体【日本岳聯】がハイキングという用語の抹殺を決定してしまう。敵性語の排斥がブームになる前である。なぜか登山家だけで用語の抹殺を決定できてしまうのである。
もちろん、皇国史観や国策との直接的な連動があってのことであるが、この件はこのあと戦時下のハイキングで詳しく説明する。
戦前のハイキングの実態 §
(略)
奇書・餘暇善用市民ハイキングの成立 §
(略)
ハイキングとは関係がない夢のハイキング §
昭和10年に出た【夢のハイキング】もかなりの奇書と言える。なぜかと言えば、ハイキングとは何の関係もないからだ。冒頭の自序から一部を引用しよう。
天気の良い休みの日に野外をあるいは町の中でも良いでしきゃう、何のあてもなく歩き疲れて帰るこの頃のハイキングのやうに夢の興趣を求めて漫然と集まったのが本書でありますから。
つまりハイキングはただの比喩である。
しかし、これを逆から読むと、彼らにとってのハイキングが何であったのかが良く分かる。
- ハイキングとは天気の良い休みの日に行くことである
- 場所は野外も町の中でも良い
- ハイキングとは目的なくただ歩くだけの行為である
心身を鍛えるという視点はないし、国家に奉仕する視点もない。無目的に歩き回っているだけのことならば、迷惑な存在に見えることも理解できる。また、特定のゴールに向かって歩くわけでもないらしいので、ハイキングコースもあまり意味がないのだろう。思い付いたらコースを外れてブラブラするのも普通なのだろう。そもそも、ハイキングコースは書籍に載った段階で著者個人が考えたコースに過ぎない。そのコースを歩く者が勝手に改変して悪い理由はなかったのだろう。
しかし、【ハイキングはこんなものではなかったはずだ】と憤りを感じる者がいてもおかしくない感じ方である。かつて【忘れたくはないものだ】とされたハイキングの始まったときの精神が完全に忘れ去られているのである。
一方で能書きをたれるより取りあえず歩いた方が健康のために良い……というのも事実である。
太平洋戦争開戦前夜・踊るスローガンと流行る偽装 §
(略)
ハイキングは言葉狩りのスケープゴート §
(略)
太平洋戦争の戦時下のハイキング §
(略)
昭和20年代のハイキング §
(略)
野猿峠ハイキングコースはなぜ人気を得たのか §
(略)
朋文堂の書籍で扱う/扱わないハイキング §
(略)
アベックコースとロマンスコース §
(略)
誰がハイキングコースを終わらせるのか §
(略)
自然探勝という新しいジャンル §
(略)
2019年のハイキング §
当初ハイキングを【行軍系】【登山系】【探勝系】の3つに分けたが、当初探勝系だけが生き残って残りは消えたように思っていた。しかし、調べて見ると単に棲み分けているだけで、どれもまだ生き残っていることが分かった。
筆者が最初に興味を持ったのは京王電鉄の歴史に登場する【野猿峠ハイキングコース】であった。従って、まさに鉄道が担うハイキングつまり、探勝系であった。また、子供の頃学校の遠足で行くハイキングも探勝系であった。身体を鍛えろとか心を鍛えろなどとは言われなかったのである。それゆえに、うかつにも【探勝系】だけが残ったと思ってしまったが事実は違った。
【行軍系】については完全に消えたと思っていた。なぜなら、最も目立つ行軍系の担い手は戦時中の政府であり、軍であったからだ。戦争が終わり軍が解体された今、【行軍系】ハイキングなど誰もやらないと思っていた。しかし違った。ボーイスカウトはハイキングが日本に来たときから行軍系ハイキングをやっていたし、今でもやっている。軍隊ではないから戦争は関係ない。
【登山系】についてはハイキング関連の書籍を発行している新ハイキング社のサイトを見に行ったことで認識を新たにした。ここまで明確に、ハイキングを【山歩き、山行】と見なす人たちが未だに存在するとは思ってもいなかったのだ。
あとがき・都市型探勝の勧め §
筆者はハイキングを趣味にしたことはない。まして、登山の趣味もない。どちらかといえば、筆者の趣味は郷土史である。(多少道路趣味もある)
それにも関わらず、なぜハイキングの歴史にここまでのめり込むのか理由が分からなかった。筆者が知りたかったのは野猿峠ハイキングコースの歴史だけだったはずなのだ。
しかし、ある日パッと理解した。
筆者は自然に親しむ気など全くない。
だが、【ハイキングの本質はただ歩くことである。他は味付け次第】と気づいた時、別の光景が見えてきた。
筆者は歩くのである。(自転車に乗る場合もある)
なぜなら、郷土史とはひたすら歩くことだからだ。
歩いて歩いて歩いてひたすらご近所を見ることで何かを得る行為なのだ。
そんなことをしているだけで得る物があるのかって?
実はあるのだ。
ちなみに、野猿峠ハイキングコースに近い百草園が城址であることを突き止めたのも郷土史研究家らしい。確かに歩くとあそこは城址に思える。(実は城址を見るのも好きだ。城は見ない。城の跡地である)
筆者も歩いて歩いて見つけたものはいろいろある。(あまり大きな発見はないが)
そもそもなぜ歩くのか。
それは健康のためだ。
しかし、歩くだけでは飽きる。
それ故に、歩く口実として郷土史を趣味にしたという側面もあるのだ。
だが最近は、近所ではなく電車に乗って多摩方面を歩くのが趣味になってきた。理由はアップダウンが多くて面白いからだ。意外性もある。
その時、住宅街が多いことは問題ではない。
別に自然に親しむために歩いているわけではないからだ。
逆に町歩きには町歩きの観察ポイントが存在する。
たとえば、多摩地方は丘陵の高い場所に水道関係の施設が存在することが多い。水を自然流下で送る都合だろう。それを見るのも楽しいと感じる。(実は水道関連施設を見るのも好きである。ついでに言えば変電所を見るのも好きである)
とすれば、ハイキングにかなり近い立場に自分は立っていると思うわけである。
しかし、【自然第1主義】とは合わない。
こちらの趣味は、街中でも成立するのだ。
そこで、【都市型ハイキング】という用語を考えてみた。しかし、もともと混乱しているハイキングという言葉に輪を掛けて混乱させるような言葉遣いは好ましいとは言えない。
そこで、都市型探勝という言葉を考えてみた。
都市型探勝は自然探勝の対極に存在する立場だ。
そして、都市型探勝は街を観察する立場だ。具体的に何を見るかは人それぞれだろう。マンホールを見ても良いし、電柱を見ても良い。河川水路暗渠でもいいし、公園でもいい。住民が踏み固めて勝手に作ってしまった道を見てまわっても良い。ドボク系の趣味と思っても良い。何でもありだ。要するに、健康のために歩ければそれで良いのだ。歩く口実は何でも良い。赤い屋根の家を探したって良いのだ。意味や価値などなくても良い。本人を歩く気にさせるモチベーションさえもたらしてくれれば何でも良いのだ。
ただし、これだけは補足しておく。
これはこれで完結した趣味である。別に高い山の頂上を目指す必要はない。ひたすら歩いて終わりで構わない。目的は歩くことだからだ。
また集団で行動する必要もない。健康のために歩くことが目的である以上、他人と無理にペースを合わせることはないのだ。常にマイペースで構わない。そもそも面白いことは人それぞれ違うのだから、他人に無理矢理付き合う必要はない。
歩いたら勝ちである。
そういう趣味があっても良いのではないだろうか。
「なぜ道を歩くのか?」「そこに道があるから」
2019/04/14 筆者
付録1・野猿峠ハイキングコースの詳細 §
(略)
付録2・オーバーナイト・ハイクの意味のぶれと変遷 §
(略)
付録3・京王帝都電鉄高尾線開業とハイキング特急 §
(略)
付録4・Yahooの宣伝に見ると登山とハイキングの錯綜 §
(略)
参考文献 §
(略)
これは以下の書籍の2.03版の抜粋です。全文は同電子書籍をお読み下さい。
ハイキングの歴史【改訂版】: 登山、行軍、そして探勝