上意討ち-拝領妻始末-(1967年の映画)を見て、さらば宇宙戦艦ヤマトと似ていると思った。言わば、破綻しなかったさらば宇宙戦艦ヤマトである。
上意討ち-拝領妻始末-とは、小林正樹監督、三船敏郎主演の時代劇の日本映画である。
あらすじは簡単に言えば、藩のムチャクチャな要望に切れた藩士の一家が藩という巨大権力に抵抗して戦うというものである。
さらば宇宙戦艦ヤマトとの類似点は主に以下の点だ。
- ともかくみんな死ぬ (生きて戻る少数の人)
- ヒロインが最大の戦闘を前にあっさり死んでしまう
- 終わったと思ったら続きがある展開が2回ある (後述)
- 圧倒的な力に立ち向かう格好良さ
- 抵抗して幽閉されるヒロイン(テレサ的)
終わったと思ったら続きがある展開が2回あるとは、さらば宇宙戦艦ヤマトでは【都市帝国出現】【超巨大戦艦出現】にあたるが、上意討ち-拝領妻始末-では【国境(くにざかい)で待っている剣士】【待ち伏せした藩の部下達】にあたる。
さらば宇宙戦艦ヤマトでは島相原以下総員18名だけが生きて戻るが、上意討ち-拝領妻始末-では乳母と赤ちゃんだけが生きて戻る。
何が違うのか §
問題はその先である。
実は、多くの点で似ているにもかかわらず、解釈が全く違っている。
さらば宇宙戦艦ヤマトと違って上意討ち-拝領妻始末-には以下の特徴がある。
- 死ぬ気で突っ込むわけではない。結果的に不意打ちの銃弾を食らって志半ばで倒れるだけである (本当は江戸まで行って不正を糾弾する気だった)
- カップルの死は不毛ではない。二人の子供は生き残る
- 確かにみんな死んでいるが、現場に出てこない偉い人は誰も死んでいない。実は不正のもみ消しには成功しているので、悪が勝っている
つまり、巨大組織に立ち向かって個人が勝てるわけがないので、最終的な負けは止むを得ない。勝たせたら不自然。その代わり、ちゃんと赤ちゃんという希望は残しているわけである。物語の組み立てとしては正当で正しい。これを見た観客の多くはおそらく、この物語に納得するだろう。
さらば宇宙戦艦ヤマトは泣いた人と納得しなかった人ばかりで、納得した人は少ないことと大きく違う。
だから、さらば宇宙戦艦ヤマトの1978年から10年以上前の1967年の時点で既に良くできたお手本が示されていたと言える。モノクロ映画はテレビのカラー化の前後を境に急速に見る機会が減っていったが、映像と直接関係ないシナリオ作成技術に関しては既にモノクロ時代に完成されていたと思って良いだろう。
問題はその先で、なぜさらば宇宙戦艦ヤマトの物語の組み立ては見劣りするかだ。
藤川桂介の能力が足りなかったからだとは思えない。
やはり、さらば宇宙戦艦ヤマトのラストは後から差し替えられた可能性が高いという解釈を取りたい。全体が整合していないのである。ただ、それを横に置いても不自然すぎる森雪の死など、割と全般的に物語にはいろいろな横やりが入っている可能性もある。
実は、さらば宇宙戦艦ヤマトの森雪の死にはあまり死ぬべき理由がない。逆に、上意討ち-拝領妻始末-でのヒロイン(いち)の死には強い必然性がある。暴力と権力で支配された女が我を通すには自ら死を選ぶしかなかったのだ。
本来は、上意討ち-拝領妻始末-のような映画にしたかったが、紆余曲折でさらば宇宙戦艦ヤマトになってしまったという可能性も考えられる。
零戦黒雲一家もさらば宇宙戦艦ヤマトと内容が近いことが知られているが、この映画は別にみんな死んだりはしない。みんな死んでしまう展開は、むしろ上意討ち-拝領妻始末-(ないし、それに近い他の映画)からの影響という可能性も考えて良いのではないか。