C++について書いた文章が、檜山正幸のキマイラ飼育記の以下のページから参照されました。
トラックバックは最後の1つにだけ投げておきます。
それはともかく、檜山さん、名文をありがとうございます。
状況が極めて簡潔に要約されています。特に、最後の「バナナ、オレンジ、イチゴ」は実に分かりやすいです。
とはいえ、感想を書くのは難しい §
これに関して何かを書きたいと思いつつも、この問題に対する感想を書くのは非常に難しいのです。
というのは、どのレイヤーで切っても、どのコンテキストから見ても、それなりに書きうる問題というものがあるからです。
コンテキスト性の希薄化の影響下にある人、つまり、暗黙的なオレコンテキストに無自覚に依存している人、言い換えれば、現状の社会、あるいはインターネットによく適応している人には何を言っているのかさっぱり実感として分からないリスクがあると思いますが、少なくとも私と同程度に不適応であろう(失礼!)檜山さんには分かると思うので、ここには書きます。
たとえば、プログラム言語ミーハーの立場から言えば、今回C++の話題に対してもらった意見の特徴は、C#の話題に対してJavaプログラマからもらった意見の特徴に酷似して見えるという問題があります。JavaプログラマがC#の話題に書いた意見と、C#プログラマがC++の話題に書いた意見に共通の特徴が見られるというのは、どういうことか?という話題。
たとえば、コンテキスト性の希薄化という状況がメタレベルの固定という結果を招かないという問題。つまり、コンテキスト性が希薄化しても、メタレベルは上下しうるという話題。
たとえば、「メタレベルを上下することでコンテキストを消失させる」ことに無自覚であると言うことが、メタという概念が重要な役割を持つXMLの普及に悪影響を及ぼすのではないか、あるいは既に及ぼしているのではないかという懸念の問題。
たとえば、メタの概念を把握することが、コンテキスト性の希薄化という問題に対処する免疫となりうるのか、という話題。
たとえば、バナナ、オレンジ、イチゴの中では私としてはどれが好きか悩む問題。一応、リンゴが好きということになっていますが、Apple社製品は好きではありません。という果物の問題。
たとえば、こんな話題を扱って、ただでさえ浮いている我々が、もっと浮き世から浮いてしまうのではないかという話題。まあ、メタとは一種の抽象であって、浮き世から離れることだと解釈することはできますが (笑。
メタな愚痴を書けば §
念のために書けば、上のような話題リストは、それが正しいという主張ではなく、そのような問題が立てうるのではないか、というアイデアです。
これらのアイデアが否定されるのであれば、それはそれで構いません。
問題なのは、正しいとするにせよ、間違っているとするにせよ、こちらがセッティングした土俵に上がることが、そもそもできていない事例が非常に多いと言うことです。(土俵に上がれないというのは、正しいとか間違っているという以前に、日本語が読めないか、あるいは勉強が足りないことを意味します。セッティングのミスを除けば、ですが)
その点で、実は非常に嬉しかったのは、檜山さんの文章が何の苦労もなく、実に軽やかに土俵に上がってきて、状況を見事に要約して見せてくれたことです。
いや本当に。
技術思想系の話題に限って言えば、やっと語りっぱなしの状況をクリアして、語られる立場になれたかな、と思います。