堀田善衞の「方丈記私記」を読み始めるに至った経緯は「「崖の上のポニョ」の世界観に踏み込む試みPart4・これを踏まえずに映画を分かった気になってはいけない? 実は知性派だったポニョ!?」を見ていただくとして (それはここでの本題とは直接関係ない)。
ようやく他の本を片付けて、やっと今日から(通院の電車移動時間と診察待ち時間で)読み始めたわけですが。
これは見た目のイメージとは全く違う作品であったようです。作者自身の空襲の体験と方丈記の都が燃える描写が重なり、鴨長明は実際の大火災で起こる状況を実証的に把握して描いていることを示します。
そして、序盤で以下のように述べています。
この鴨長明という人は、なんにしろ何かが起きると、その現場へ出掛けていって自分でたしかめたいという、いわば一種の実証精神によって、あるいは内なる実証への、自分でも、徹底的には不可解、しかもたとえ現場へ行ってみたところでどうということもなく、全的に把握できるわけでもないものを、とにもかくにも身を起こして出掛けて行く、彼をして出掛けさせてしまうところの、そういう内的逼迫をひめた人 (新潮文庫版p22より)
これを読んで「おお! なるほど!」と思いました。
このような精神は非常に良く分かります。なぜなら、私の精神も似たようなものだからです。特に歴史趣味的に実際に何かが起きた現場に行ったことは珍しくもありません。廃駅、廃線、水路跡、城址等、行ったところで何が起きるというわけではありませんし、場合によっては痕跡すら残っていません。しかし、それでも行ってみるわけですね。
そして、行くことによって思いもよらない何かを得ることもあります。
逆に、何もないと思っていた道を歩いていて何かを発見してしまうこともあります。
であるから、私の趣味、特に歴史趣味は「現場に行く」ことが前提となります。文献は「現場」を解釈する手段として後から登場するものであり、同時に「行くべき現場」を探し当てる手段でもあります。
だから郷土史になる §
このことは、裏を返せば、実際に現場に行くことができる場所だけが追求の対象にできることを意味します。
まず気軽に日帰りで見に行ける圏内として、主に東京23区と都下の比較的近い範囲が対象になります。
しかし、思い立ったら即座に行けるという意味では、徒歩圏内こそが真の対象になります。現場に行くことができない遠くの都よりも、自分が今住んでいる郷土です。
だから、必然的に郷土史をやるしかないわけです。
しかも、徒歩圏内の比較的狭い範囲が対象になります。
「現場に行く」という方法論を満たせる最善の手段、最大の愉悦と快楽を得る方法がそれだからです。
だから対象は「江戸東京」でも「杉並」でもなく「下高井戸」なのです。
余談 §
更に言えば、桜上水Confidentialさんや、「我が家を中心とする半径2分の1マイルの円内にこだわった、探訪・研究記」を標榜する、きむらたかし@三田用水さんのHalf Mile Projectは、たとえば「世田谷の……」「神田川の……」といった比較的広い範囲を対象とする人たちとはやや異質な、別種の濃厚さを感じます。これは「行ったことがある」ではなく「何回でも心ゆくまで訪問する」「用が無くても行ってみる」といった「何は無くともとりあえず現場に行く」という方法論を使うことができる長所ゆえ、かもしれません。(本当のところはどうか分かりませんが)
そういう意味で、桜上水Confidentialさんやきむらたかし@三田用水さんは、郷土史関連を扱っている人たちの中でも、特に親近感を感じます。