「昭和13年の京王バス路線図に記載された「下高井戸バス停」は「下高井戸駅」とは別の場所か!?」の件で「京王帝都電鉄三十年史」を開いたときに、1つ気になったことがあります。それは、戦後まもなく、京王線の3両編成化を実現する際の障害になった「西参道駅付近Sカーブ」は、現在のどこにあたるのかという問題です。更に、なぜSカーブが作られたのかという理由も気になります。
鉄道関連の書籍を見ても、場所については言葉で説明しているものはあっても、具体的にどこでどう曲がっていたのか分かるものは見つかりませんでした。理由について述べているものは私が軽く見た範囲では見つかりませんでした。単に「Sカーブがあった」→「解消された」という話しか見つかりません。
しかし、場所についてはgoo地図の昭和22年の航空写真を見てあっさりと解決。
以下のリンクをクリックし、「昭和22年」をクリックしてください。
更に、この航空写真を見て、ハッと気付きました。
そして、このSカーブを「鉄道趣味者」が語れない理由も分かりました。
なぜなら、ここは玉川上水と神田上水助水路の分岐点そのものだったからです。これは、「鉄道趣味者」ではなく「水路趣味者」が扱うトピックです。
しかし、私のように「歴史趣味」という大カテゴリのサブカテゴリとして「鉄道趣味」「水路趣味」の双方に目配りができる立場から見れば、Sカーブと神田上水助水路の分岐点が同じ場所にあることは一目で分かります。
具体的に説明します。(上記航空写真を見ながら読むと分かりやすいと思います)
- 初台あたりから新宿方面に進む京王線は玉川上水の北岸に沿って敷設されていたが、途中から南岸に移る必要があった (ここで少なくとも1つの橋梁が必要とされる)
- 玉川上水から北西に向かって神田川に至る「神田上水助水路」という水路が分岐していた
- 線路が玉川上水北岸にある場合、「神田上水助水路」をまたぐ橋梁が必要とされるが、「神田上水助水路」をまたぐ前に南岸に移ってしまえばこの橋梁は必要とされない
- 従って、「神田上水助水路」の手前で北岸から南岸に線路を渡すのは、必要な橋梁の数を減らす効能があると考えられる
- また取水口そのものの上を鉄道通らないで済むという効能も考えられる
- しかし、手前には「西参道通り」との交差があり、あまり自由な線路配置は取れなかった可能性がある
- 従って、西参道通りと神田上水助水路の間で北岸から南岸に渡ろうとするなら、どうしても急激なSカーブにならざるを得ない
- 更に言えば、水路の片側から別の片側に移る線路配置は、どのように緩和しようともSカーブの形を取らざるを得ない。しかも、緩和措置は、水路の上を塞ぐ線路部分の増大を意味し、難工事になる可能性は高いと思われる。それにも関わらず、Sカーブは解消できない
- 従って、Sカーブの完全な解消が「地下化」まで達成できなかったのも当然と言える。玉川上水を埋めた後で地下に線路を敷くとすれば、もはや「南岸」も「北岸」も存在しない
以上、確実な根拠のない単なる推定であることにご注意ください。
感想 §
いやー。まさか、水路趣味の知識がここで役に立とうとは。思いも寄らない展開が新鮮でした。
過去の解釈には、やはり幅広い「常識」が必要だと痛感。