以下の話は思いつきを書き飛ばしただけなので、内容を信じてはいけません。むしろ、頭から無批判に信じないのが賢い態度でしょう。
前置き §
劇場用アニメーション映画「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」のサイトにある予告ムービーを見てぶっ飛びました。
もはや、正体も良く分からない宇宙の彼方の女神さまの声に導かれる血気盛んなお子様宇宙戦士ではなく、「おとうさん、地球を助けて」と懇願されて必至に戦わねばならない中年パパの物語になるのか!!
いやこれは凄いぞ! だって、今更「私はテレザートのテレサ」と通信が入ったからといって、反逆して助けに行くなどと言われても感情移入できないもの。でも、パパ世代に突入してしまった今となっては、(実際に自分に娘はいなくとも)、「おとうさん、地球を助けて」はぐっと来るもの。
というわけで、以下ヤマト復活論です。
松本ヤマトと西崎ヤマトという問題 §
宇宙戦艦ヤマトという作品は、松本零士と西崎義展という2人のキーマンによって2つに引き裂かれていたと言えます。しかし、少なくともヤマト完結編までは1つのコップの中に2つのヤマトは共存していたと言えます。
その後、2つのヤマトは完全に分離して別の世界に進みます。
この状況下で、ヤマトに対する周囲の態度はおおむね3つに分かれたと考えられます。
- 松本ヤマト支持
- 西崎ヤマト支持
- ヤマトそのものを、もはや支持しない
アニメファンの多数派は「ヤマトそのものを、もはや支持しない」を選び、ヤマトファンの多数派は「松本ヤマト支持」に進んだような気がします。西崎義展の強引なやり方や不祥事の数々、YAMATO2520の営業的な失敗などを見ると、相対的に「西崎ヤマト支持」派は少数であるかのように思えます。
そのような成り行きの根拠の1つとしては、「さらば宇宙戦艦ヤマトでみんな殺したのに次の作品でみんな生きていたことにした金の亡者西崎」への反発と、殺してはいけないと主張した松本への賛意があるような気がします。
その後の展開を見ると、たとえばヤマト音楽系のコンサートは松本零士ありきで構成されている等、ヤマトファンの「松本支持」「西崎不支持」という流れはあったような気がします。
しかし、この流れが本当に正しいものであったのか、という疑問が当然あり得ます。
たとえば、過去にも私が最も納得したヤマトは「新たなる旅立ち」だと述べたことがありますが、この作品は西崎の趣味が色濃く出た作品だと言われています。
また、2009年05月16日に東京交響楽団 東京芸術劇場シリーズ第100回として演奏された羽田健太郎(テーマ・モチーフ:宮川泰、羽田健太郎):交響曲「宇宙戦艦ヤマト」(「東京交響楽団 東京芸術劇場シリーズ第100回感想・あるいは「宇宙戦艦」抜きの「ヤマト音楽」という「もう1つの世界」論」「「宇宙戦艦」抜き「ヤマト」に至る交響組曲宇宙戦艦ヤマト最終曲「スターシャ」に秘められた深慮遠謀!?」参照)は、明らかにヤマト音楽コンサートの定番ゲストである松本零士抜きに成立しており、松本支持とは別の価値観があり得ることを間接的に示しています。
では、ここで原点に立ち返って考えてみましょう。
本当にヤマトファンは松本ヤマト支持なのでしょうか?
砲塔が増えて、もはや戦艦大和のシルエットすら保っていないグレートヤマトを支持しているのでしょうか?
どこからどう叩いても戦艦大和とも宇宙戦艦ヤマトとも関連性を考えられない「戦艦まほろば」を支持しているのでしょうか?
古代と雪が結ばれてエッチして子供も作らず、別の誰かと結ばれて延々と同じ名前の子孫を作り続ける展開を支持しているのでしょうか?
おそらく、松本ヤマトは実際にはそれほど手厚い支持を受けてはいないような気がします。「恥ずかしいけどオレ、ヤマトは好きなんだ」という人がまだけっこういることと、「西崎はちょっとなあ」という感想を加味すると、「松本ヤマト」が支持されているかのように見える可能性はありますが、それはおそらく事実ではありません。
ちなみに、同じパターンは既に999の世界にあります。999人気と松本支持は直結していないようなのです。たとえば松本世界そのものを描く「銀河鉄道999 エターナル・ファンタジー」という映画は、客が入らず続編が作れなかったという過去の経緯があります。(ちなみに、この映画は劇場のロードショーでちゃんと見たぞ! けしてつまらない映画ではなかったぞ!)
では、「恥ずかしいけどオレ、ヤマトは好きなんだ」というサイレント・マジョリティが本当に見たいヤマトとは何か? それは誰が作るのか?
西崎復活編という新しい選択肢 §
祭り上げられて社会の高い階層で良い人生を送っている松本零士に対して、西崎義展の人生はどん底の連続だったといえます。当初は誠意あるよい人だったとされますが、ヤマトのヒットで人格が変わり、敵対者を増やしてきたともいいます。また、ヤマト完結編以後は、逮捕されたり有罪が確定したり、YAMATO2520は途中までしか製作できず、ヤマト復活編に至っては作るとぶち上げた企画が2回も不達成となっています。(今回は3度目)
この状況から言えることは1つだけあります。
- 苦難のどん底からはい上がってきた人間は、何かを成し遂げる力を手に入れるかもしれない
(これは、ヤマトIIIで土門が飯炊きから第1艦橋に上がってきた経緯にも符合する)
つまり、ヤマト復活編の他に、もう1つ西崎復活編という物語があり、ヤマトファンは新しい選択肢を手に入れた可能性があり得ます。
実はそのような「可能性」を踏まえて見るなら、ヤマト復活編は馬鹿にして無視するようなものではなく、成果を刮目して見る価値があるのではないか、と思うわけです。
本当に見たかったヤマトとは何か §
このヤマト復活編のストーリーを、サイトや予告ムービーの情報から要約すると以下の通りです。
- 人類を滅ぼそうとする敵がいる
- 人類は大船団で流浪している
- 多数の戦闘機を搭載した旧式艦がたった1隻だけ残り、人類の船団を守っている
これは「宇宙空母ギャラクティカ」と全く同じです。
宇宙空母ギャラクティカはおおむね宇宙戦艦ヤマトと同時期の作品であり、たとえば新たなる旅立ちのプレアデスを正面から見たビジュアルがギャラクティカの艦載機発進口を正面から見たイメージイラスト(?)とよく似ていたり、相互に影響を与えていたことが推測されます。
では、ヤマト復活編は単なるギャラクティカのパクリと見るべきでしょうか?
そのような単純な話ではないと思います。
おそらく「本当に見たかったヤマト」を追求した結果、ギャラクティカに似ただけ(あるいは、同じベクトルの追求の結果、両作品が似てしまっただけ)だろうと思います。
(それとは別に、ギャラクティカのリメイク版ドラマが「つまんねーよ」というアンチテーゼを突きつける、という側面もあり得ますがそれは横に置きます)
この作品が最終的になすべきことは、ヤマトを魅力的に描いて観客を納得させることであるとすれば、他作品と似ていることは主要な問題ではありません。それよりも、ヤマトの魅力を最大限に引き出すか否かが問われます。
そのような観点から言えば、この予告ムービーはよくできていると思います。
- CG時代になって叶った、なめらかにあらゆる角度から見える「あのヤマト」 (シド・ミードのヤマトでも、デザインが違うグレートヤマトでもない「あのヤマト」)
- 氷を砕いて氷上から発進する (地面、海面、雪原などに続く新しい展開だが、もちろん期待通りだ!)
- 飛び交うビーム、ミサイル、艦載機の密度の高さ
- パワーアップしても明確な限度がある6連波動砲 (何発でも撃てそうな波動カートリッジ弾と違って、使い所を間違えれば即刻ピンチだろう!)
- 当然乗り組んできて主流をなす、新乗組員たち (でも主役はすっかり年を食った古代)
- 救助に奔走して佐渡やアナライザーにも声を掛けるヒロイン
- コスモタイガーっぽい艦載機群
- ちょっとだけオシャレ度がアップしたが相変わらず矢印の艦内服
- 女性乗組員の肌に密着したエロい艦内服 (ワープしたら脱げて欲しいがそこまでは無理か)
ワープで艦内服が脱げなくとも、これは見てみたいと思わせる要素がきちんと並んでいます。
更にもう1つ重大な「仕掛け」が用意されていると感じます。
アニメを「幼児向け」という固定観念から解放したヤマトであっても、ファンの主流は10代、20代のガキンチョでした。しかし、「恥ずかしいけどオレ、ヤマトは好きなんだ」というサイレント・マジョリティはもう子供ではありません。この世代は既に大人であり、家庭を持ち、子育てという現実と向き合っています。今更、どこの誰かも分からない女神の声に誘われて、家庭を捨てて宇宙の果てで戦うことは心情的に無理でしょう。それはストレートに感情移入できる対象ではないのです。
そこでポイントは「おとうさん、地球を助けて」です。たぶん、「恥ずかしいけどオレ、ヤマトは好きなんだ」という世代には、赤い地球よりも、スターシャ/テレサ/マザー=シャルバートの言葉よりも、グッと来ると思います。家族のために戦わねばならない、というのは、家族を抱えた中年には最もストレートに理解可能な「戦う理由」だろうと思います。
結論 §
見ますよ。
ヤマト完結編の「70mm版」も劇場できちんと見ましたからね。
これも見ますよ。
もちろん、100%の自信があって期待しているわけではありません。「あの西崎」ですから、何をしてくるか最後まで予断を許さないと思っていますよ。
しかし、その毒まで含めてヤマトの映画は皿まで食いましょう。
2009/09/22追記 §
「子育て卒業の自称森ユキ」さんより以下のようなメッセージが送られてきました。
はじめまして。本日ヤマトの予告を観ました。
思わず、「なんじゃこりゃー!!」と叫んでしまいました。
オサーンになってしまった古代君を見て、『また私の初恋の人をぶっ壊すのか!』と威きり立ちましたが、トーノ・ゼロさんの文章を読み冷静になれました。お礼申し上げます。
とりあえず劇場公開で、お父さんの古代君を応援してきます^^。
続編ものは、作品への思い入れを壊すことも多いので、気持ちは何となく分かります。たぶん、10~20年前なら、何を作ろうともファンからの反発は大きかったような気がします。ただ、これだけ時間が経過してしまうと、「過去の自分の思い入れ」はそれはそれとして、「新しいヤマト」を受け入れる心のゆとりも生まれているような気がします。
とりあえず、年を取った古代がいい男なら「私が好きだった古代君はこんないい男だったのよ! 私の見る目は確かだったわっ!」と叫べば良いし、古代がダメなら「あんな男と結婚しなくて正解だった」と思えば良いわけで、どちらにしても楽しもうと思えば楽しめるでしょう。
それはさておき、ここで強く思ったのは「かつて男と女が同じアニメを見ていた時代」です。今は、男向け、女向けの作品が分離していることが多いのですが、ヤマトからガンダムの時代は同じ作品を見て熱狂していたし、男の子と女の子が一緒にアニメの上映会に行くことも珍しくはありませんでした。(事実として、入場券が当たったから、という理由により、女の子からガンダムの上映会に誘われて一緒に行ったことがあるぞ。まだ中学生の頃だ)
当然、ヤマトにも「古代君が(あるいは島さんが)初恋」という女性もいれば、「雪が初恋の相手」という男もいます。(自分の場合、雪はまだ恋というのは淡すぎたか。しかし思い入れは深かった)
しかし、感性に隔たりが大きかったのも事実です。たぶん最初に見たアニパロ漫画は、OUTの2回目のヤマト特集に掲載された古代裁判ものだと思いますが、陪審員が全員古代ファンの女性で「古代無罪」というオチは本当に驚きました。いや、あの女々しい古代は少なくとも私の周囲のヤマトファン(男ばかり)からは支持が無かったから。
そういうギャップにショックを受けて良い勉強ができるのも、同じ作品を男女が見ている時代だからこそでしょう。