以下はけっこう前に書いた文章ですが、そのまま掲載します。
やっと分かってきました。
「死」について考えているときに、やっと思い当たりました。
初期計画案は、登場人物がほとんど死にます。
しかし、実際に放送されたTV第1シリーズはほとんど死にません。放送期間が短縮されてストーリーが改変されたからです。
ここで、以下の2つの解釈があり得ます。
- 本当ならほとんどが死ぬべきであった。死ぬことが本来のヤマトである。時間の都合で死まで描けなかったのはやむを得ない
- 放送短縮に乗じて死にすぎるストーリーをもっとマシに改善した。死なないことがヤマトである。死を排除したことは誇るべき偉業である
ここで初期から参加している主要スタッフは前者、後から参加した松本零士先生は後者であると考えられます。
従って、死を描き直すという行為は、放送直後から着手されます。どうも、劇場版のスターシャの死はTV放送直後から絵コンテが存在したらしいのですが、前者の立場からは当然です。欠落した「死」を埋め合わせるためです。しかし、劇場版の短縮された時間に合わせるため、TVシリーズの映像を使えないという大義名分が成り立ちます。
従って、両者ともに自分に都合の良いように解釈できます。
- 本来あるべき「死」を少しでも埋め合わせる
- 時間の都合でやむを得ない (死んでいれば会話で時間を使わない分だけ短縮できる)
しかも、このフィルムは幻になります。スターシャが生きているバージョンがTV放送され、こちらが正しいフィルムになってしまうからです。
次が「さらば」です。ここで、差異は決定的に露呈します。
- 敵と味方の双方に反乱があり、ほとんどみんな死ぬ本来のヤマトを取り戻した
- 苦労して小さくまとめた反乱と、苦労して排除した死が全面的に復活して時代錯誤である
つまり、以下の決定的な対立を引き起こします。
- もともとヤマトってそういう企画でしょ?
- 偉業が否定されて怒り心頭である!
要するにヤマトにおける対立とは、こういうことではないでしょうか?
とすれば、解決方法はありません。最初からボタンを掛け違っています。ヤマトは2つあると受け入れるしかありません。どちらが好きでも構いませんが、間違えると危険です。あるいは、1つのものと思いこむと袋小路に入ってどこにも行けなくなるかも。
昔からヤマトって奴は §
石津嵐版もひおあきら版もTVとはまるで違う展開の上に、TVも再編集で劇場でやると大幅に解釈が代わり(なんとスターシャは死んでいたのだ)、更に劇場版をTV放映するときにまた変わります(なんとスターシャは生きていたのだ)。こういう時代の洗礼をきちんと受けていれば、「たった1つの解釈」にまとめようという試みに意味がないのは明らかです。そういう状況の延長線上に現在はあると思えば何ら奇異なことはありません。