「というわけで、クレしん映画だ」
「うん」
「ヤマトファン的に有意義であった」
「というと?」
「最後に颯爽と現れてピンチを救う大人ひまわりのコスチュームがちょっと森雪風」
「ちょっと似てるだけで、そういう方向性はねらってないかもよ」
「かもね」
「それが理由?」
「いやいや。そうじゃない」
「というと?」
「この映画は、まずロボの存在は悪役なんだよ」
「うん」
「悪党が逃げ込んで暴力を振るう装置としての位置づけなんだ」
「うん」
「そこに颯爽と登場するボーちゃんロボ28号」
「そしてメカ戦だね?」
「いや。実は、しんちゃん、大人しんちゃん、タミコの主要登場人物3人は乗らない」
「えっ?」
「だからさ。そうやって登場したロボも弱者が逃げ込む場所であって、物語に決着を与えるパワーを持っていないわけだ」
「なるほど」
「もう1つあるぞ」
「なんだい?」
「顔が見えるんだよ」
「えっ?」
「悪役が使う家電ロボXは、胸が大型テレビで、途中までは家電のCMが流れているが、後は操縦者の顔が大写しになる。そして、ボーちゃんロボ28号も顔がボーちゃんそのもの顔を隠すという機能性は持っていない」
「つまり、どういうことかい?」
「正義の主人公が正義のロボに乗り込んで悪のロボを倒すと物語が決着するというオタク的なお約束の世界の外側にこの映画はあるということだ」
「なるほど」
「正義側の主人公がまずロボに乗らないし、ロボを倒すことが物語の決着とはならない。あくまで明けない夜を明けるのが決着だ」
「それって、オタクのお約束も分かってない作り手だということ?」
「いや。そうじゃない。これは映画的な作り方なんだよ」
「というと?」
「そもそも、正義の主人公が正義のロボに乗り込んで悪のロボを倒すと物語が決着するというのは、ロボの玩具を売りたいスポンサーがあって成立する方法論だが、基本的に大人が顧客層である映画界にそのようなシステムは馴染まない。いくらロボを宣伝しても玩具を買う層とは一致しないからね」
「うん」
「むしろ、短い時間に客を納得させ、感情移入させるには、なるべく観客に近い存在つまり、生身の主人公が生身のまま決着させる方が好ましいわけだ」
「なるほど」
「従って、映画にあってロボはまず悪のものであることが多い」
「アバターとか、ロボを使うのは悪役側だね」
「そして、顔が見えることが多い」
「うん、アバターでも敵はロボに乗っても顔がよく見えるね」
「そうだ。アニメ界という小さなコップだけ見ていると異質だが、このクレしん映画は映画界という広い海の中で見たときにさほど突飛というわけではないように感じられる」
「では、それが結論だね」
「いやいや、話はここからだ」
「というと?」
「つまりさ。ここでアニメ界の常識と映画界の常識の間に引かれた一本のラインは、そのままガ○ダムとヤマトの境界線と重なるということだ」
「えっ?」
「つまり。ヤマトはアニメとアニメブームの始祖とされるが、実際はアニメの世界に属しておらず、実際はむしろ映画の世界に属しているのではないだろうか」
「まさか!」
「いや、いろいろ考えてみるとその解釈は間違っていないかもしれないぞ」
「というと?」
「アニメ界では、ある監督の次回作は同じジャンルになることが暗黙の上で期待されている」
「ガ○ダムの次はやはりガ○ダムとか。ガ○ダムでないとしてもロボットアニメとか、そういうことだね」
「うん。でも、映画界では、同じ監督が同じジャンルで作り続けるとは限らない」
「タイタニックで過去の話をやったのに、今度はアバターで未来の話をやるようなものだね」
「しかし、もちろん人気作のパート2企画もある。そういう場合はジャンルは同じだが、そこでは同じと見せかけで違うことをやる。題材は同じでも、楽しみ方の趣向が違うんだ。同じだと飽きられるからね」
「それがどうしたんだ?」
「だから、ヤマトもそうなんだよ」
「えっ?」
「ヤマトはヒットしたので同じヤマトの続編がいくつも作られているが、全て趣向が違う」
「それってどういうこと?」
「たとえば、さらばはヤマト艦内の結束が1つの見所になるが、永遠にではアルフォンが見所になる。汗臭い男のドラマが、甘いラブロマンスに変貌だ」
「そうだとすると、同じ趣向だと期待すると裏切られるぞ」
「うん。おいらも裏切られた。それが間違いだったと気づくのは最近の話だ。ヤマトは必ずしもダメになっていなかった。むしろ趣向が読み取れなかったこちらの問題だ」
「ということは?」
「最初のテレビシリーズだけは良かったとかほざく知ったかぶり原理主義者の真相に迫れた気がする」
「ずいぶんな言い方だね」
「じゃあ上品に言い直そう。ガミラスに下品な男は不要だからね」
「うん、頼むよ」
「最初のテレビシリーズだけは良かったとかほざく知ったかぶり原理主義者の真相に迫れたような気がするでございます」
「語尾書き足しただけじゃねえか!」
「てへっ」
「それで何が真相だというの?」
「つまりさ。マジンガーを見ていた視聴者は、グレートマジンガーに同じパターンを期待して良かったのだ」
「うん。パターンとしては同じだね」
「正義の味方が正義のロボに乗って悪のロボを倒すことで決着するという基本スタイルは同じ。けして、山羊を連れてアルムの山に行くだけで終わってしまうという話を見せられることはありえない」
「どこの山だよ」
「でも、最初のテレビシリーズを見ていた視聴者は、再編集版の映画に同じ趣向を期待しては行けなかったのだ。あるいは、さらばや2に期待してはいけなかったのだ」
「そうか」
「ヤマトに飢えていたから、劇場版もさらばも美味しく食べることができた。あの当時はね。でも2ぐらいから、そこまでの飢えはないからヤマトというだけでは食べられなくなってきた」
「うん」
「だから、そのあたりから少しこちらもヤマトの趣旨を理解せず、受容に失敗し始めていたのではないかと思う」
「なるほど」
「しかし、そこで受容に完全に失敗した者は、ヤマトと聞いただけで馬鹿にして、第1スリーズ原理主義者になってしまうわけだ」
「つまりどういうこと?」
「いいかい。午後7時から放送されていたマジンガーのスタイルを常識的な前提として受容している限り、午後7時半から最初に放送されていたヤマトは受容できない(時間は東京の話。念のため)。その場を支配しているルールが違うからだ」
「そうか、時間的に隣接しているし、同じセル画を使っているから似ているように見えるが……」
「そうだ。似ているように見えるが同じ世界にいないし、同じルールにも支配されていない」
「そうか。ルールが違うんだね」
「ここでの罠はアニメの捉え方なんだ」
「というと?」
「映画界というのは、実はいろいろな素材に対して開いている。たとえば、コララインとボタンの魔女は人形アニメだ。同じようにセルアニメにも開いている。ダレン・シャンだったと思うけど、実写映画でもオープニングのアニメーションが凄く良かったということもある。つまり、映画界のサブジャンルとしてのアニメーションはありなんだ」
「うん。でもそれはアニメ界ではないということ?」
「そうだ。別の世界だ。しかし、両者の境界は明確ではない。同じスタッフが手がけたりするしね」
「分かったぞ。ここに境界線はあるけど、曖昧なんだ。もしも、それに気づかないで踏み込んでしまうと……」
「そうだ。解釈できなくなって、おかしい失敗作という感想になってしまう」
「そうか。だから、境界線の内側にあるガ○ダムはもてはやされて、外側にあるヤマトは過剰に貶められるわけだ」
「でも実際はヤマトを別のルールが支配しているだけで、ヤマトが駄作というわけではないんだよね」
「なるほど」
「そういうことを考えるヒントをくれたという意味で、あの映画クレヨンしんちゃん 超時空! 嵐を呼ぶオラの花嫁は良かったよ。というか、この映画もヤマトと同じ世界にいるのだろう。たぶん。夢破れたぼろぼろの未来の自分に会うという展開は、家庭を放り出した中年古代くんを見るのと同じだろうね。あと宮崎アニメも押井作品もね。洋画の多くもだ。更に言えば実はケロロロボは、顔が見えるという意味で、こっちの世界にいる」
「でもガ○ダムはいない」
「いないね。正義の主人公を正義のロボに乗せて顔が見えなくなるパターンはほとんど無いようだ。極めて特異な存在になってしまう。日本のアニメ大好きと称するマイケルが主演した映画ムーンウォーカーですら、ロボの顔はマイケル本人で、やはり本人の顔が見えてしまう。つまりアニメ界のルールに従っていない」