「ゲド戦記であーる」
「それがどうした?」
「一度見ようと思っていたが、丁度テレビで放送されてラッキーである」
「どうして見ようと思ったの?」
「試写会で見たコクリコ坂が良かったので、同じ宮崎吾朗監督のゲド戦記を評価したかったのだ」
「過去には悪く評価したの?」
「おいらは見てないが、悪い評価しか聞いていない」
「その悪い評価は本当に正しいのかってこと?」
「自分で検証していない常識は嘘であることも多いから実際に見たいと思ったよ」
「それで結論は?」
「少し難解ではあるが、よくできたいい映画であった」
「どうして結論がみんなと違うの?」
「その話は後で詳しくしよう」
「頼むよ」
テレビの問題 §
「とりあえず録画して後で見る予定であった」
「そうか」
「ところが、リアルタイムでちらっと見たら最後まで見てしまった」
「えっ?」
「ちゃんと見る者を結末まで連れていく、その程度のパワーはある映画だってことだ」
「でも、それって大変じゃん」
「そうだ。予定が大幅に狂って大変だよ」
映画の問題 §
「この映画はきちんとテーマがあって、一貫性もある。見せ場もある」
「うん」
「意外性もある」
「そうか」
「それに、難しいテーマもきちんと描いている。何しろ、序盤の主人公なんて『なんじゃこりゃ』だからな。さしたる理由も無く父親を殺して、壊れた表情で大乱闘。女の子を助けるためかと思えば殺してもいいと言うぐらい壊れている」
「それは映画としては欠点じゃん。主人公がおかしかったら感情移入できないじゃん」
「いや、これはいいんだよ。だって、その主人公が欠陥を克服していく話なんだから、最初は欠陥が無きゃ話が成立しない」
「えっ? それでいいの?」
「そうだ。これでいいんだ。屈折は最後にスパッと開放される。映画としての方向性は正しい」
原作の問題 §
「では、この映画にまつわる悪評とはいったい何だろうか」
「君は前向きに評価したわけだよね。何が違うんだい?」
「よく考えてみると、悪評は2つの経路から出てくることに気付いた」
「この2つがどうかしたの?」
「大多数のオタクに映画を見る能力は無い。彼らが何を言ったところで、トンチンカンだから取り上げなくても問題ない」
「わははは。それは言い過ぎだろう」
「問題は2つめだ」
「それがどうして問題なの?」
「おいらは原作を読んでいない」
「アーシュラ・K・ル=グウィンのゲド戦記だね」
「ファンタジーっぽい小説を読まなかったと言うわけでは無い。昔は少し読んだ。ちなみに、好きだったのはアンドレ・ノートンのウィッチ・ワールド・シリーズとか、ロジャー・ゼラズニイのアンバーの9王子とか、あとはディ・キャンプ&プラットのハロルド・シェイかな」
「でも、ゲド戦記は読んでいないのだね? なぜだい?」
「ぜんぜん食指が動かなかったからだ」
「うーむ、すっきりした答えじゃないね」
「そうさ。小説なんて嗜好品だからすっきりした答えは出ない」
「それで、原作を読んでいないとどうなるんだい?」
「『そこは原作と違う』という無粋な突っ込みは入れないで済む」
「無粋なのかい?」
「そうだ。映画とは良い映画であるために原作を改編しなければならないのだ。だから違うのは当たり前。それをわざわざ大騒ぎするのは無粋」
「原作と完全に同じなら見ないで結末が分かるから見る必要が無いってことだね」
「そういうことだ。それじゃ客が呼べないので、違うことを見せる必要がある」
「ならどういうこと?」
「映画に対して誠実であろうとするなら、思い入れの深い原作ファンは必ず裏切られることになっている」
「えっ?」
「原作者も同じかな」
「原作者も裏切られちゃうのか!」
「もちろんだ」
「じゃあ、思い入れの深い原作ファンとか原作者が言っている文句は……」
「映画を映画として評価する際には一切耳に入れる意味は無い」
「断言しちゃったね」
「そりゃそうだ。1本の映画は1本の映画として1つの世界を作るのが理想だ。その際、たとえ原作があっても映画の前に小説を読むことは客に要求できないし、残りの話を小説で読ませることを要求もできない」
「では、ゲド戦記はこれでいいのかい?」
「大筋では問題ない。よくできている。初監督作品でここまでできたら大したものだろう」
景観の問題 §
「景観の描写は非常に良い」
「えっ?」
「建物のスケール感や地形の描写は突出して優れている」
「そこは、元ランドスケープ・アーキテクトの宮崎吾朗監督の見せ場?」
「かもしれない」
「たとえば?」
「クライマックスで塔を昇る。カリ城では、時計塔に昇る。しかし、演出的に見れば頂上に昇ることが望ましい。だから、猫の恩返しでは頂上までちゃんと昇る」
「そうだね」
「そういう意味で、ゲド戦記もちゃんと頂上に昇るのだ」
「えっ?」
「その高さとスケール感は見事だと思ったよ」
「どこに要因があるのかな?」
「おそらく、距離と大きさを持って設定されているからだろう」
「なんとなくロケハンして撮ってきた写真を見せてこんな感じ……というのではなく、もっと具体性があるってことだね」
まとめ §
「ゲド戦記はいい映画だと思ったよ。でも、原作を読みたいとは相変わらず思わない」
「それはどうして?」
「きちんと始まってきちんと終わったいい映画だから、続きが欲しいとは思わないからだ」
「ははは」
「あと、開始早々いきなり父親殺しちゃうのはいいね」
「いいのか」
「罪を背負っていない主人公なんて面白くも無い」
「未来少年コナンとか罪を背負ってない活発な主人公じゃん」
「バカを言え、コナンは世界を滅ぼした科学者達の子供なんだ。親の罪を背負って産まれてきているんだ」
「えっ?」
「ナウシカは腐海遊びにうつつを抜かし、パズーは金貨を受け取ってシータを売ってしまったのだよ。サツキとメイはおまわりさんから隠れようとするし、キキはトンボが他の女に会うのが面白くないし、ポルコは怠惰な豚であるし、アシタカは祟りをもらっているし、ハウルは自分から荒れ地の魔女に声を掛けているし、ポニョは親の言いつけにそむいているし、やはり主人公は罪を背負うべきなんだ」
「宮崎アニメばっかりじゃん」
「では、宇宙戦艦ヤマトなら古代は無断出撃という罪を第1話で犯し、ガンダムなら戦場で夢中になってマニュアル読んで勝手にガンダム動かすし、マクロスの1話ならアクロ飛行中のバルキリー編隊の真ん中にエアレーサーで勝手に入り込んで反転ブースト急上昇かますし」
「分かった分かった」
「まあ、この映画の場合、本当に竜とか魔法とか異世界が必要だったのかは分からないけどね。影さえいれば良かった気もするが、まあそれはさておき。原作があるのでね」
「原作の縛りか」
「ある程度は縛られるよ」
「ある程度はしょうがないのか」
「だからさ。現実世界を舞台にで竜とか魔法とかそういうのを抜いて映画を作ればもっといい結果が出ると思うよ」
「それがコクリコ坂じゃないか?」
「わははは。確かにそうだ。竜も魔法も無しでちゃんと映画は成立してるし、面白い。それで十分なんだ」
「そうか」
「でもそれはそれとして、ゲド戦記も良くできてるよ」
「褒めてるね」
「うん。個人的な評価は高いぞ」
「なぜ高いの?」
「軸となって作品を貫いているテーマが、いかなるファンタジーのお約束でも無く、自分自身の恐怖心というのがいいね。これはテーマ的に現代の我々にも通じる」
「テーマが現実的だから、ファンタジーでも寓話として見られるってことだね」
追記 §
「だからさ」
「うん」
「たぶん宮崎吾朗監督には2つの方法論があり得たんだ」
「2つ?」
「原作ファンを満足させる路線と、映画ファンを満足させる路線だ」
「その2つは違うってこと?」
「まるで違う」
「それで?」
「原作者と父親は勝手に盛り上がっていたようだが、宮崎吾朗監督は後者を選んだわけだ」
「どうして後者を選んだの?」
「映画はヒットしなければならない。原作ファンを動員するだけでは数が足りない。それより、普段から映画を見ている客を取り込む方がずっと見込みが高かったのだろう」
「原作ファンはおいてきぼり?」
「しょせん、彼らは小説を読む人であって、映画館によく来る人種じゃないからな」
「確かに。映画館の客ではないね」
「それから、おそらく原作への思い入れはそれほど無い。それよりも映画とはかくあるべきというスタイルは良く分かっていた」
「映画は分かっていたわけね」
「むしろ、宮崎駿より分かっているぐらいかもしれない」
「えっ?」
「宮崎吾朗監督は、実は元映画少年だった押井守の弟子と捉えた方が的確なのかも知れない。子供の頃は一緒に山荘で過ごしたようだし」
「親の七光りで映画を作ってるのじゃないってこと?」
「監督の椅子に座れるのは親の威光が大きいかも知れないが、実は座って作った映画はまるで異質だ。オヤジは不満だろうが、押井守は喜んでいるみたいだ」
「君も嬉しそうだね」
「面白くなって来たじゃないか」
「どっちにつく?」
「女、と言いたいがどっちも男だ」
「駿側と、吾朗側だったら?」
「あえて言うなら吾朗側につこう。そっちの方が面白そうだ。はははは」
「空飛ぶゆうれい船で産湯を使ってゴーレムに震撼した君とは思えない台詞だね」