「突然思いついた」
「何を?」
「ヤマトは安彦良和ではなく、湖川友謙によって描かれる必要があったという理由についてだよ」
「理由なんであるの?」
「今、見出した」
「なんだいそれは」
「まあ長い話だ、ゆっくりしていけ」
ファーストガンダムの問題 §
「ファーストガンダムには1つの作画上の致命的な欠陥がある。テレビシリーズにもあるが、特に劇場の第3部『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』にもある」
「えっ? だってガンダムIIIってかなり新作作画じゃないか」
「そうだ。描き直しているのに直ってなかったから個人的評価が低いんだ」
「その欠陥ってなんだい?」
「以下の通りだ」
- 画面の中で人間とMSと戦艦が同じぐらいの大きさに見えてしまう (実際は、戦艦の中にMSがあって、MSの中に人間がいてサイズがまるで違うはず)
「どうしてこれが問題にならないのだい?」
「うん。いい質問だ。大多数のお子様達から見て、戦艦はどうでもいい刺身のツマなので関係ない。MSとは人間が感情移入して大暴れする暴力装置なので、設定身長はともかくとして心理的な等身大なのだ」
「えっ?」
「だから、同じサイズに見えてもそこは重要な問題にならない。心理的には等身大なんだ」
「ヤマトはどうなの?」
「ヤマトの場合、常に戦艦>搭載機>人間というサイズの比率は維持される。ほとんどのケースで人が見えるからサイズの基準になるのだ。でもMSは人を隠すから、人がサイズの基準にならない」
「うーむ」
「しかし、これはガンダムシリーズあるいは富野アニメの問題とも言えない。たとえば、ZZガンダムの序盤はZガンダムを巨大に描くことに成功しているからだ」
「そうか。不可能というわけでもないのね」
「さてここで問題だ。MSと人間は同じ人型であり工夫無く描くと記号的になってサイズの識別がやりにくい」
「うん」
「ところが、そこに『大きい人型メカ』と『小さい人型メカ』が出てくるともっとややこしくなる」
「サイズの識別がもっと難しいね」
「ところがだね。ザブングルは『大きい人型メカ』『小さい人型メカ』『人間』の3つが出てきて、破綻してないのだよ。アイアンギアが巨大な人型に変形しても、WMよりも大きいことが分かる。あるいは、ダンバインでも同じだ。実はダンバインでは4種類に増える。『小妖精』『人間』『オーラバトラー』『ハイパー化したオーラバトラー』になる。しかし、破綻してない。小妖精は人間より小さく見えるし、オーラバトラーはハイパー化すると大きく見える」
「なぜ大小が分かるんだい?」
「おそらく、作画上のカメラの思想があるからだ。カメラで撮ると、1/144ガンダムと1/1ガンダムは全く違った絵になる。しかし、記号的に描くと区別が消失する」
「そうか」
「だから、安彦良和の作画は記号的表現から完全に脱し切れておらず、突き抜けられない壁を持ってしまう。あるいは別の言い方をすると、『大小を示す記号を描く能力に欠けた』とも言える」
「それって、記号なのか記号じゃ無いのか、どっちなんだよ」
「それを言ったらアニメは全部記号さ」
「ぎゃふん」
「だから、安彦良和はヤマトでは絵コンテしか描かず、作画には来ない。来られないからだ。でも、湖川友謙は作画に来られる。ヤマトが必要とする『ヤマトは人よりもはるかにでかい』というスケール感をストレートに描けるからだ」
「そうか」
「だからさ。『殴るアイアンギア、蹴るアイアンギア』が話題になるんだよ。普通ならロボットが殴っても蹴ってもそれだけでは話題にならない。当たり前だからだ。でもアイアンギアは違う。普通のロボよりも遙かに大きいことが分かる絵だからだ」
更に言えば §
「ああそうか。だからさ。さらば宇宙戦艦ヤマトでは、ちっぽけなヤマトが巨大な白色彗星の前にワープアウトしてくるという絵が成立するんだよ。作画にスケール感があるからだ」
「そうか。踏みつぶせ!」
「更に、都市帝国の下部に待避したヤマトは、勝ち目が無いぐらいサイズに差があることも絵的な説得力としてそこにある」
「なるほど」
「でも、都市帝国内部に突入すると古代は敵兵士と同じサイズになって対等に戦える」
「そこがスケール感なんだね」
オマケ §
「しかし、これはガンダムシリーズあるいは富野アニメの問題とも言えない。たとえば、ZZガンダムの序盤はZガンダムを巨大に描くことに成功しているからだ」
「ZZか」
「ちなみに、ZZのキャラデザの北爪宏幸氏もビーボォーにいたことがあり、湖川系と言えなくもないのだ」
「えっ?」
「どこかで影響を受けた可能性もあり得る」
オマケ2 §
「しかし、これはガンダムシリーズあるいは富野アニメの問題とも言えない。たとえば、∀は∀を巨大に描くことに成功しているからだ」
「どうしてだろう?」
「だからさ。∀というのは基本的にパイロットが見えるデザインなんだよ。そういう意味で、ブラックタイガー/コスモゼロ/コスモタイガー系と同じ。人が見えればそこが基準になってサイズが見えてくる」
「そうか」
「それに演出的に洗濯に∀を使うとかね。人間が手でやることを実行させると、大きさが分かりやすい」
「そうか」
「そこから逆に言えば、ヤマトは常に『窓』があるから分かりやすいともいえる。OPを見ても、窓から見える人影があるのでサイズが分かりやすいのだ」
「人を隠しちゃダメだってことだね」
「その点で、巨大ロボットでもジャイアントロボは大作少年がロボの肩の上に乗っていて外から見える点が優れている」
「そうか」
「しかし、アニメのジャイアントロボの序盤はロボを大きく見せるための演出技術が多用されているにも関わらずあまりロボが大きく見えない問題がある。アニメーターのセンスの問題だろう。その点で、あれはまだまだ記号的でありすぎるのかもしれない」
「あれはいいんだよ。みんな銀鈴見てれば幸せなんだから」
「ぎゃふん」
オマケIII §
「ただし、ヤマトも記号であることに注意が必要だ。カメラの思想は必要だが、絵的な嘘も必要だ」
「なるほど。写実であればいいわけではないのだね」
「そうだ。写実的なヤマトは成立しない。同じ理由で精密がスケールモデルも成立しない」
「でもなんか変な話だね」
「変じゃない。トリック写真という言葉があるように、いくらでもカメラは嘘をつく。嘘をつくから実写の特撮が成立する」
「ノンフィクションの映像すら嘘が含まれる場合があるってことだね」
「だからむしろ特撮の方が最初から嘘であることを明示している分だけ誠実とも言えるのだ」
オマケデフォルメ §
「変じゃない。トリック写真という言葉があるように、いくらでもカメラは嘘をつく。嘘をつくから実写の特撮が成立する」
「プラモのデフォルメヤマトも成立するってことだね」
オマケ坂から §
「以上の文章はかなり寝かせてしまった」
「うん」
「でもさ。宮崎吾朗監督に書いた話をかなりかぶっているのに気付いて愕然とした」
「えっ?」
「宮崎吾朗監督作品で湖川キャラが走り回っても、それなりにいい映画はできそうな気がしてきた」
「ジブリじゃなくても?」
「現実的には、宮崎ブランドが通用するのはジブリだろうからいきなり宮崎吾朗作品で湖川キャラは走れないだろう」
「妄想レベルってことだね」
「妄想レベルでいえば、なかなか行けるかもしれない」
「そうか」
「実はその前でに細田守監督という名前があってもいい」
「えっ?」
「アニメ監督としては結構傍流に追いやられて3DCG映画とかもずいぶんやってるんだ。写実的で記号性が少ない映像を作る。だから、細田ハウルは実現していたら意外とそっち側との相性が良かったかも知れないが、実現はしなかった。その無念を実は宮崎吾朗監督が晴らしているのかも知れない」
オマケ坂から2 §
「それで、妄想レベルで湖川キャラが走り回る宮崎吾朗監督作品ができたらどうなるんだ?」
「まず、バッフクランの少女がカララカララと旗を揚げる」
「それで?」
「地球人の冗談みたいな少年がそれを見ているのだ」
「それからどうなる?」
「遺跡の保存運動でいつの間にか愛し合うようになる」
「その後はどんでん返し?」
「そうだ。実は地球人とバッフクランの先祖は同じという驚くべき事実が発覚する」
「いい加減にしなさい」
オマケ戦記 §
「これじゃヤマトネタにならへんがな」
「分かった。それじゃさ。古代の子供は娘から息子に変更」
「SPACE BATTLESHIP ヤマトも息子だしね」
「それで、開始早々いきなり古代が息子に刺されて死んじゃう」
「えっ?」
「そのあとは延々と息子の話だ」
「なに? じゃあヒロインは?」
「人間だと思ったヒロインは、最後に変身しちゃうのね」
「なんで?」
「実はイスカンダル人とのハーフだったんだ!」
「どこにこの話の着地点があるんだよ」
「無い!」
「どうして?」
「ヤマトはマザータウンの海に着地しないで着水するものだからだ」
「気温摂氏20度だね!」