「今日は広島に原爆が落ちた日らしい」
「そうか。それに何か感想があるのかい?」
「別に無い。経験もしていないし、産まれてなかったし」
「そうか」
「まして、西日本は同じ日本に見えて別の国だ。辛うじて言葉が通じるだけで、微妙な前提文化がまるで違う」
「そんなに?」
「そうだね。表面的には日本は画一的だが、地域差はまだまだ多い」
「なるほど」
「でもさ。感じることは別の意味である」
「それはなんだい?」
「福島第1原発の問題でショックを受けている人たちは、いったい広島から何を学んだのかってことさ」
「えっ?」
「何も学んでないだろう。学んでないから今更原発事故程度でショックを受けられるのだろう」
「それは特定個人への意見かい?」
「それならまだいい」
「えっ?」
「そんな意見をここしばらくいくつも見てきたからさ」
「ネットのブログとかで?」
「新聞でもな」
「そうか」
「書いている本人は何か凄いことを初めて知って警鐘を鳴らしているつもりなんだけど、本来なら知っていて当然という常識からはそれほど逸脱していない」
「どういうことだい?」
「本当なら、物事を真摯に受け止めて他人のことでも自分のことのように考えるという作業が必要なんだ。でも、それをさぼってきたってことだろう」
「でもさ。みんなショックを受けたって話ばかり見るぞ」
「そりゃそうだ。ショックを受けなかった人は、別に語らない。だから語るのは、ショックを受けた人ばかりだ。結果として、世界は『ショックを受けた人』の語りばかりで埋め尽くされる。そして、それが主張の多数派になることで、まるで多数派の正しい主張であるかのような幻想が産まれるが、実は論旨にぽろぽろ難点があって主張を実行するとすぐに前進不能になるだろう」
「どうやってそれを証明する?」
「やってみれば分かるよ。どうせ言葉で言っても通じないんだ。やってみるしかあるまい」
「今の日本にそんな試行錯誤をやっているゆとりがあるのかい?」
「うん。無いよ。もはや、きれい事を言っていたら日本は滅びるね。というか、既に十分に滅びかかっているよ」
オマケ §
「思い返してみると、昔からのパターンなんだよな」
「それはなんだい?」
「たとえば都市計画は100年単位で動く。でも反対派は1年単位で動く」
「えっ?」
「だからさ。反対派が『寝耳に水の降って沸いた理不尽な道路計画は許せない!』っていきまいていても、計画そのものは数十年前からある、なんて事態がゴロゴロしているのさ」
「どういうこと?」
「道路の計画なんて計画されてから何年も経てば話題にならなくなる。その後で引っ越してきた人は、そんな計画があるとは気付かないかもしれない。だから、寝耳に水と言いたいのかも知れないが、だからといって計画など無かったとは言えない」
「それと広島がどう関係するの?」
「100年単位で歴史から学ぶ人にとって広島の原爆は射程圏内にあるのだ。でもさ。1年単位で経験から学ぶ人にとって広島は悲惨な現実ではなく記号なんだ」
「それってまさか」
「さあさあ、話はオシマイ。帰った帰った」
「もっと語ってよ」
「めんどくさいからパス」
「えー」
「ここまでだって本当は語りたくなかったんだ。面倒だから」
「じゃあなんで語ったんだよ」
「まあ、さる事情により」
「猿事情がなかったら語ってないってこと?」
「そうだ。当然だ」