「ちょっと面白い話題だから少し触れておこう」
「いったいなんだい?」
「web東京荏原都市物語資料館のきむらけんさんはダイダラボッチの研究をしていらっしゃる」
「うん」
「初めて参加された松原さんはあまり信じていないと仰ったそうだ」
「それで?」
「だけど、きむらけんさん自身、ダイダラボッチの存在を信じている訳じゃ無い」
「話がややこしいぞ」
「きむらたかしさんが懇切丁寧にコメントで説明しているが、柳田國男も信じていたとは思えない」
「じゃあ誰が信じていたんだよ。君か?」
「もちろん、おいらも信じてない」
「じゃあ、どこにいるんだよ。信じている人は」
「この文脈では誰も信じてない」
「は?」
「信じている人がいるという考え方そのものが存在しない虚構の概念なのだ」
「虚構なのか」
「しかし、あたかも実在するように語られ、描き出されてしまうのだ。それが京極妖怪の本質だ」
「いるけどいないのだね」
「そうだ。いるけどいない、という概念に対して脆弱すぎた人たちがいた、という懸念はある」
「どういうこと?」
「だからさ。きむらけんさんの世界はカードファイト・ヴァンガードのように『イメージせよ』という世界なんだ。カードファイト・ヴァンガードでは惑星クレイで行われる戦いを題材にしたカードゲームが行われていて、惑星クレイをイメージせよと言われるが、惑星クレイなんてものは一切出てこない。フィクションの中ですら出てくるのは現実の日本でしかない。惑星クレイはフィクションの中ですら空想上の惑星なのだ」
本題 §
「だがしかし、ここまでは話の半分」
「えっ?」
「ここからが本題だ」
「どういうこと?」
「たぶん、ここからが話の分かれるところだ」
「どこが違うの?」
「たとえば、坂本龍馬は実在するか?」
「は? 実在の人物だろ? それともどっかのアニメの登場人物の話をしてるのか?」
「そうじゃない。人々が坂本龍馬という名前からイメージする人物は本当に生きていたのだろうか?」
「えー」
「だからさ。ここで坂本龍馬の実在を自明の前提として置く人と、置かない人がいる」
「でも、そういう歴史上の偉人が実在するという前提を置かないと歴史そのものが崩壊しちゃうよ」
「崩壊しない。なぜなら、死んだ人間とイメージされた人間は等価なんだ。死んだ同名人物をイメージされた別の人間に差し替えても歴史は機能してしまう」
「じゃあ、どうするの?」
「イメージを排除した歴史の実像に迫りたいと思うなら、イメージの表現物である絵や文章には頼らないことだね」
「じゃあ、何に頼るの?」
「未だに残る物証だよ」
「たとえば?」
「川や坂だね。永い時間を掛けて形成された地形は数百年程度ではそうそう変化しない」
「人工地形も増えたというじゃない」
「でも、人工地形はたいてい局所的なんだ。全体を見ることで傾向を掴めることはおおむね分かっている」
「だから坂も見にいくのか」
「まあ他にもいろいろ理由があるけどね」
だからね §
「だから、世の中の戦国武将ブームとかには乗れないわけだよな」
「えー」
「だって、本当にいたのかも疑わしいという立場だからさ」
「イメージされた人物に過ぎないかもしれないってことだね」
「文字として書かれ、実在したかのように語りきってしまう力は存在して、それが文学のパワーだ。しかし、そのパワーの大きさゆえに、『何かをねじまげて伝えてしまった』という懸念が常に付きまとう」
「諸刃の剣だね」
「だから、たとえば織田信長は好きですか?と言われてもあまり明瞭な答えは出てこない。でも、玉川上水は好きですか?という問いなら答えが出る」
「本物の織田信長は見たことないけど、本物の玉川上水の跡地は見ているってことだね」
「まあな」
オマケ §
「でも、なんでカードファイト・ヴァンガードなんて説明の引き合いに出すんだよ。みんなそんなの知らないぜ」
「なぜならWikiPediaのカードファイト・ヴァンガードの項目にこう書いてあったからだ」
アニメでの本作の舞台は、第3話と第26話では京王線府中駅に酷似したターミナルが描かれていたり、第16話では地区大会の会場が同じ東京都府中市に実在する府中市郷土の森博物館と酷似している施設が描かれていたりと 実在の府中市をモデルにしたと思われる点がいくつか見受けられる。
「郷土の森博物館って……」
「東京在住の歴史マニアなら訪問した経験のある可能性が高い場所だな」
「ぎゃふん」
「実際府中は楽しいぞ。水路跡も充実しているし、残っている水路もある。研究者もいる」
「それだけ?」
「パンチラ少女もいる!」
「なんだよそれは」
「府中の水路跡マニアなら絶対に通じるはずだ」
「どう通じるんだよ」
「郷土の森博物館に通じる水路跡にある!」
「……確かに通じたよ。意味は違うけどなっ!」