「下高井戸シネマでコクリコ坂やってたので、見てきたぞ」
「なぜ平日の今日……」
「火曜日は割引だから」
「……」
泣ける §
「もう何回も見ただろ?」
「だけど、何回見ても泣けるなあ」
「オチを知っているのになぜ泣けるの?」
「たぶん、オチを見て泣いているのではないからだ」
説明が驚くほど少ない §
「他に何か言うことは?」
「今回見て思ったのは、説明が驚くほど少ないことだ」
「説明が少ない?」
「たとえば、映画冒頭の海の行動には全て意味がある。しかし、どのような意味があるのかは説明されない。行動に説明が無いのも当たり前なら、言葉に説明がないのも当たり前だ。ビジュアルに説明がないことも珍しくない」
「それは分かりにくい映画ってこと?」
「そうじゃない。本筋はベタベタで分かりやすい話だ。たぶん、誰が見ても映画のあらすじは分かる」
「それなのに説明が少ないってどういうこと?」
「説明が少ないことの効能はおそらく2つある」
「つまりどういうこと?」
「講堂が乱闘になった時、見張り役が合図して生徒会長が歌い始めて合唱する。先生が来ても問題は無かったかのように見せかける。全ての手順は一切の説明無しに進行する。登場人物はそれを常識として知っているわけだ。だから、いちいち説明しない。それが自然な演技を崩さないってことだ」
「でも客は分からないよ」
「いいんだ。客は自分で『そこで起きた出来事』の真相をあとから推理して理由を発見するんだ」
「推理して発見する面白さがあるわけだね。でも、それってどういうこと?」
「映画の最終工程は、客が見ることだ。それで映画は完結する。その部分だけ客はクリエイティブに関与するのだ。発見する面白さがあるとは、その工程が豊かになることを意味する」
「説明されたことより、自分で見つけたことの方が楽しいわけだね」
「そうだ。電車の窓が三段である理由とか、小型トラックの前輪が1つしかない理由とかだね。映画の中では何も説明されていないが、同時代では当たり前だからだ。しかし、今時の日本人はそれを知識で補って描写を解釈して理解していくことができる」
「そうやって考えて見つけて行くのが楽しいってことだね」
オマケ・北斗さんの送別会の男達 §
「北斗さんの送別会にいた説明のない男達は何者か」
「えっ? 何者なの?」
「メルの学校のOBで、北斗さんの友達で、カルチェの先輩なのかな?」
「そんな感じなのかな。学校のことを話していたし」
「しかし、それだけなんだろうか?」
「まさか、もっと深い関係が?」
「無いとも言えないだろう」