「ネット特にTwitterで流れてくる政治的な言説はほとんど見るに堪えない幼稚さだ。特に断言系の言説は見苦しいだけだ。自分の未熟さを露呈しているだけだ」
「原発は推進すべきである、当たり前だ、って感じ?」
「原発はゼロにすべきだ、当たり前だ。も同じだよ」
「推進もゼロも両方間違っているの?」
「そうだよ。この2つの命題の間違いは原発でも、推進でも、ゼロでもでもなく、当たり前という部分にあるのだから」
「なんで?」
「そんな簡単に答えが出るなら紛糾はしてないし、問題領域には隠された情報はいっぱいあって、そもそも判断などそう簡単にできるはずがない。それにも関わらず判断ができてしまっている人は、脇が甘い詐欺のカモタイプってことだ」
「ははは」
「しかし、本題はそこにはない」
「どこにあるんだい?」
「ならば両論併記は公平だと思うかい?」
「どちらの言い分も説明して、判断は読者に委ねるってことかい?」
「そうだ」
「決めるのはあくまで読者なら公平じゃないか?」
「残念ながら外れだ」
「なんで?」
「両論併記でも書き方次第でいくらでも結論を誘導できるからだ」
「たとえば?」
「とてもシンプルであからさまな例を書いてみよう」
- A社の製品は百万台が普及した大ヒット商品となった
- B社は自社の製品が百万台販売されたと主張している
「これがどうしたんだ?」
「どっちの製品が実際に普及していると思う?」
「B社は自己主張に過ぎないけど、A社の製品は本当に売れているっぽいね。A社の製品が実際には売れているじゃないか?」
「外れだ」
「えーっ? なんで?」
「実際には、A社の百万台の根拠が無く、実はA社の百万台も誰かの自己主張に過ぎない。つまり、根拠無く主張しているだけという意味ではA社もB社も同じ。それにも関わらず、書き方次第で結論を誘導できる。実際にはもっと複雑で凝った書き方をしてトリックは分かりにくくなっているけどね」
「じゃあ、両論併記も書き方次第で公平にならないってこと?」
「そうだ」
「でもさ。自分で考えればトリックを見抜けるんじゃないの?」
「残念ながら次の罠が待っている」
「まだあるの?」
「そうだ」
「両論平気のどこに罠があるの?」
「両論併記とは、2つの意見を同程度に説明することを意味しているだけで、両論をどこまで正しく書いているのかは別問題だ」
「同程度の説明したら公平じゃないの?」
「そうじゃない。たとえば、重要な前提を省いて結論だけ書いてしまうと、根拠薄弱に見えてしまう。しかし文章量が同程度だと一見平等に見えるし、その言葉だけ取り出せば嘘も書いていない」
「嘘を書いていないけど、間違ったことは書ける訳だね」
「そうだ。嘘をつかずに間違った結論に誘導するのが詐欺的言説の基本だ」
「たとえば?」
「これが間違った結論への誘導になるの?」
「そうだ。このような文章を見れば、たいてい発言者側の製品はもっとマシだと思うだろうが、実はそれについての言及はない。もっと欠陥が多いかも知れないが、そのことは隠蔽されている」
「それが、嘘をつかずに間違った結論に誘導するってことだね」
「そうそう。そういう行為は実際には山のようにあると思うべきだ」
「つまり、両論が併記されていても、そもそも公平に取り上げられていない可能性を疑うべきってことだね?」
「そうだ。両論併記は詐欺的言説の入り口だと思うべきだ。併記した者の価値観が必ず入り込む」
「では、君はどうすれば良いと思うのだい?」
「決まっている。誰かが併記した両論なんて見ないで、どちらの主張も自分で調べるんだよ。当たり前だ」
「めんどくさいね」
「でも当たり前だ」
「なんで、当たり前だと言えるわけ?」
「そもそも、可能な限り1次情報にあたれ……と言われている。加工された2次情報はあてにならないと思うべきだ」
「泣けてくるほど常識的な結論だね」