事例を探せ §
これが典型的なパターンなら、1983年にクライシスを迎えた作品が【ゴーバリアン】【幻魔大戦】【宇宙戦艦ヤマト完結編】【クラッシャージョウ】だけであるはずが無い。幅を前後1~2年ぐらいに取って、クライシスを探してみよう。
クライシスの症例は以下のようになる。
- 企画の不成立
- 作品が意図した水準に仕上がらない
- 観客に支持されない
- 安定シリーズ方針転換や終了
それぞれのケースについて見てみよう。
企画の不成立 §
テクノポリス21C (1982) §
パイロット版はつまらないアニメではないが、【面白くない】という意見も多く聞いた。当然実現していない。
作品が意図した水準に仕上がらない §
FUTURE WAR 198X年 (1982) §
つまらない映画ではないが、戦争反対の観点からは業界内外からの理解は得られなかったようだ。実写の監督、非アニメの人気イラストレーターなどの起用もアニメ的な分かりやすさを損なったようだ。
超時空要塞マクロス (1982) §
要求水準が高すぎて、作画が良いエピソードと悪いエピソードの差は大きかった。
ダンバイン(1983) §
ファンタジー的な世界観は後半に行くに従って徐々に弱くなっていき、最終的に【現実の地球に出現した異世界のロボット戦アニメ】になってしまった。
観客に支持されない §
レイズナー (1985) §
打ち切られてしまったが、音楽面などの見るべきものは多い。特にミュージック・フロム・レイズナーなどは、完全に片足が普通のフュージョンのアルバム側に入っている。
オーディーン 光子帆船スターライト(1985) §
評判は悪いが実際に出来の悪い映画ではない。
安定シリーズの方針転換 §
魔法少女 §
魔法の天使クリィミーマミ (1983)は、ファンタジー的な物語と、普通の少女の物語から構成されるのだが、ここでいう【ファンタジー的な物語】とは夢想的な物語という意味ではない。そうではなく、伝統的に構築されたファンタジーのお約束に則った世界を意味する。しかし、魔法少女シリーズは続くが強度のファンタジー要素はこの先復活しない。単なる夢想的な【魔法物語】になっていくだけだ。
名作劇場 §
牧場の少女カトリ(1984)は非常に良く出来た作品だったが視聴率は低く、支持されたとは言いがたい。その結果として、これに続く小公女セーラは物語の奥行きが浅く、出来が悪かったが、支持された。名劇最大のターニングポイントだろう。
ちなみに、名劇中興の祖とも言える斉藤博+宮崎晃コンビの活躍の場はこれを気に急速に他の場所に移動していき、別の会社、別のチャンネル、別の時間帯で楽しいムーミン一家という成功作を作っていくことになる。そういう意味では【安定シリーズの終了】と見なしても間違いでは無いだろう。
うる星やつら §
人気の高かった押井版うる星やつらの放送は1984年3月までで、そのあとは監督が交代してしまう。
エルガイム(1984) §
永野護的な世界観は、そのままアニメでは展開できなくなり、印刷媒体のFSSに移行して行かざるを得ない。
安定シリーズの終了 §
非富野リアルロボットシリーズ §
ダグラム (1981)からボトムズ (1983)に続くシリーズは、ビジネス的に成功して長期シリーズ化したダグラムとマニアの人気の高いボトムズで盤石に思えたが、ここでボトムズで1回途切れてしまう。
わが青春のアルカディア(1982) §
ハーロック、999等の松本アニメの連作は、これで終わってしまい、その後に予定されていたエメラルダスは幻となってしまった。
問題の特徴をまとめる §
これらの問題の特徴を改めてまとめてみよう。
- 志はとても高い
- その高さは末端のスタッフまで浸透しない
- 仮にスタッフに浸透させても、その高さは客に理解されない
つまり、2つの壁が存在する。それはスタッフからの支持と、客からの支持だ。
だが、なぜ壁が2つもできてしまうのだろうか。
志は高かったはずではないのだろうか。
根源はどこか §
アニメというジャンルの決定的な長所は以下にあると思う。
- 集団作業であり、複数の人間の感性が入って作品が豊かになる
しかしながら、これは作品の主旨がスタッフ全員に理解可能ならば、という但し書きが付く。
問題はその先だ。
アニメは常に同じではいられない。同じなら飽きられるからだ。
従って、常に新しい血を導入し続けねばならない。
ところが、ここで1つの問題が発生する。
飽きられないために、今までのアニメとは違う革新的なアニメは常に要求されているのだが、核新的なアニメはスタッフから理解可能とは限らないからだ。全く別の常識を要求された時、ただ単に1枚いくらで報酬をもらいたいだけのスタッフはわざわざ勉強するだろうか。できれば勉強などしたくないに違いない。
実は、そのような理由により、スタッフの平均水準を超える【何か】が発生した瞬間、スタッフは消極的抵抗勢力に変化する。作品の品質を上げていく協力者ではなくなるのだ。そして、その傾向は末端のスタッフになるに従って強くなる。作品の本質を変化させうる可能性がより少なくなるからだ。
つまり、以下のようになる。
- 志を上げることは、アニメ作品の質の向上を意味する
- しかしながら、志を上げすぎると周囲が付いてこられなくなり、むしろ作品は荒れる
この壁の水準は状況によって変化するので一律ではない。良い人材を集めれば壁は遠くなるし、単なる食べるための機械作業ぐらいにしか思っていないスタッフが多ければ壁は近くなる。
しかし、遠近が移動するだけで壁は確実に存在する。
この問題は、作り手のコアスタッフと末端スタッフ間の信頼関係でも変化する。【良く分からないが、信頼しているXXさんがそう言うのならやってみよう】という気になれば作品は成立する。
しかし、それは客が持つ壁の問題まで解消するわけではない。
さて、これはアニメだけの問題だろうか。
答えは明快で、どの世界に行こうともやはり壁はあるだろう。
しかし、壁の位置はジャンルによって大きく違うだろう。
たとえば一般映画の世界なら人材の厚みが違うので、分かっていないスタッフはいくらでも交代可能だからだ。細かく分業され、システムとして動くアニメの制作現場とは少々違うことが予想される。
従って、壁の位置が違うので、一般映画の方法論をアニメの世界に持ち込むと、それによって上手く行かない可能性が推定できる。
客の問題 §
ではスタッフではなく客はどうだろうか。
客もやはり勉強はしたくないのだろうか。当たり前だ。どこの世界に金を払って映画を見るために勉強する客がいるというのか。(もちろん勉強するために金を払う【勉強マニア】は存在するが少数派であろう)
しかし、話はそれで終わりではない。
一般映画を見る客は作らない壁を、アニメを見る客は作ってしまう。
なぜだろうか。
それは子供だからだ。
なぜ子供だと壁を作るのだろうか。
子供の精神は万能だ。最強無敵であり、矛盾無く最強無敵のヒーローに感情移入できる。従って、世界の全ては彼に理解可能であるはずだ……と感じる。
その前提は大人になることによって覆される。大人になって社会に入ると【僕は万能ではない】ということが暴露されてしまうからだ。しかしながら、【世界の方が間違っている】と認識して、子供の万能感を温存してしまう大人もいる。
その状況で【彼】に理解できないほど志の高いものに晒されると、【彼】には【分からない】。一般的な映画なら分からなくても構わない。分かるように説明されるからだ。ところが、【彼】には知らないことがあった……という事実を突きつけられることが我慢ならない。なぜなら、【僕は万能ではない】という事実を【暴露】する試みだからだ。そのような試みは【間違い】として排斥しなければならない。
その結果として、【彼】は理解可能な部分だけつまみ食いするが、それでは支離滅裂で意味など通るはずがない。たとえていえば、【面白い映画を見た】を、漢字が読めない子供が【いをた】と読むようなものだ。当然意味など分かるはずもない。その結果として【彼】は【面白くない】【つまらない】と言う。もちろん、それは正当な映画の評価ではない。パンを食べるシーンを見ないで、さっきあったパンが無くなっているのはおかしいと言い立てても、それは映画が悪いとまでは言えないのだ。
問題が最悪になるのは、パンを食べたシーンを直接挿入しないで間接的に描いた場合だ。しばしば間接的に描かれたものは無かったことにされ、全体的におかしいと決めつけられることがある。このような客層は、表現を一ひねりするだけで追従できなくなることがあり、要注意点となる。なぜなら、高い志を持って良い作品を作ろうとする行為は、象徴的な暗示を多用する可能性が高く、それは客の脱落の可能性を示唆する。客がいくら【僕らは何もかも知っている万能のスーパー観客です】と主張したところで、その主張を鵜呑みにして作品作りができるわけでもない。(しかし、しばしばマニア向けのひねりの利いた優秀な作品を作ってしまうケースは多い。当然、それらはあまり流行らない。評論家から高く評価されても一般観客からはあまり支持されない)
余談 §
余談だが、この認識は世の中のいろいろな疑問に答えてくれるという意味で面白い。
たとえば、筆者は模型を作る際に【見立て】ということを行う。たとえば、宇宙戦艦ヤマトのガミラス艦を作る際に、C5ギャラクシー輸送機に見立てて、そのような色を塗り、マーキングを貼るのだ。ところが、この【見立て】という解釈をまともに受け止めてくれた人はほとんどいない。あくまで奇抜な色を塗ったという受け止め方なのだ。つまり、表現を一ひねりしただけで、追従できない人達が多発する。むしろ、追従できないと自覚するならマシである。自分が追従していないことに対して、言われるまで無自覚なのだ。
別の例を出そう。たとえば、新人には達成できない課題を与えて、「分からないことがあれば質問しろ」と言い添ええる場合がある。当然実行しようとしても実行できないから質問しなければならない。そのために、わざわざ質問しろと伝えてあるのだ。しかし、質問をしてこない新人がいる。要するに同じところを堂々巡りして時間だけを無駄にしているわけだ。
もちろん、会社には永遠に出口の無い堂々巡りをする社員に払う給料はない。しかし、質問してこない人がいる。どれほど時間を無駄にし、出口が見えなくとも質問できない人がいる。
【彼】は、自分が【完全無欠のスーパー社員】であり、入社直後からバリバリと会社のエースとして仕事ができると思って来ているのだ。【完全無欠のスーパー社員】である以上、与えられた課題ぐらいこなせて当然なのだ。【彼】は、実行できない不完全な指示が来ることは想定していないのだ。しかし、実際には上司やクライアントから不完全な指示が出ることは珍しくなく、そこで無限ループに陥ってフリーズされては困るのだ。だからこそ、フリーズしないための研修なのだが……。壁を越える方法をわざわざ指示しているにもかかわらず、自分で超えられない壁を作ってしまいタイプは、この研修を乗り越えられないようだ。
対抗策はなんだ? §
1983年前後で終わってしまうシリーズも多いし、挫折も多い。
映画が良くても客が受け入れないこともあるし、そもそも映画が上手くまとまっていない場合も多い。
どうすれば良いのだろうか。
このあたりから、処方箋のようなもの……の模索が始まっているように思える。
第1に指摘できるのは、1984年のゴジラ復活だ。壁に突き当たったアニメを見ての特撮の復権の模索だ。しかし、これは成功したか微妙だ。次のゴジラ映画は5年後の1989年まで開くことになるからだ。
別の方法論は【スタジオジブリ】だろう。ジブリの特徴は2つある。1つは、スタッフを正社員化して固定化することだ。それによって生活は安定し、意思疎通も容易になる。壁を作りにくくなるのだ。もう1つは、一般客を相手にしたことだ。一般客は壁を作りにくいし、そもそも人数が多く大きなビジネスが成立する。
あまり理解されていないがジブリのエース、宮崎駿は1980年頃にはマニア層の手厚い支持のあるクリエイターだった。クラリス、ラナといった宮崎駿ヒロインは強く支持されていて、人気があった。しかし、この頃から、急速に宮崎駿はマニアの神さまという位置づけから【裏切り者】になっていく。当然だ。彼は【マニアの神さま】というつまらない立場を否定したのだ。
そもそも、ジブリの成立をいつと考えるのかは微妙だ。なぜなら組織としてのジブリが成立するのは1985年になるのだが、1984年の風の谷のナウシカもジブリ作品となっているからだ。しかし、これがアニメクライシス1983以後の動きであることは間違いなく、1983型のクライシスに陥らないためのシステムであることも確かだろう。
【ヤマト2199の謎とアニメクライシス21Cの勃発に続く】