「ヤマト2199は悲壮感が足りないと批判される場合がある」
「そんなに足りないのかね?」
「実は、ヤマト1974でもヤマト艦内はそれほど悲壮な感じではない」
「たとえば?」
「古代と加藤が罰として格納庫掃除に行くと、既に先客が多いとか」
「ひぇ~」
「しかし、実は昔から悲壮感があまりないのはそこだけで、別の角度から見ると話が変わってくることに気づいたよ」
「つまりなんだよ」
「たとえばね。ドメルが自爆するとき、ヤマト1974だとゲールが驚く」
「自爆装置!」
「セットカウントは30秒、これが最後の決め手だよゲール君」
「死ぬことが凄く精神的に衝撃であることが描かれているわけだね」
「そうだ」
「ヤマト2199だと?」
「そこにゲールはいないし、驚く人もいない。なぜかその場の部下は全員、みんな死ぬことを受け入れてしまっている。その場にいなかった部下は違うかもしれないが、そいう話は出てこない」
「衝撃ではないわけだね」
「そうだな」
「それだけじゃ弱いよ」
「あとはヒス」
「ヤマト1974のデスラーに抗議するヒスは姿を消したわけだね」
「ヒスは死なない。ガミラスも滅びない。ヒスやガミラスに関する悲壮感は綺麗さっぱり消えてない」
「でもイスカンダルは全員死んでいるから悲壮だよな」
「実は【もうスターシャしかいない】と【ユリーシャもいる】では雲泥の差がある」
「古代守は死んでいたんだよな」
「そこも問題で、実は死にゆく星に2人だけ残るという悲壮感がない。既に死んでいるから、もう死を目前に達観した遺言しか残っていない」
「じゃあ地球。地球はやはり悲惨だよな」
「ところが、ヤマト2199では相原の両親の悲惨な姿を実際には見せていない。悲惨さの演出がパワーダウンしているのだ」
「つまりまとめるとなんだい?」
「こういうことだな」
- ヤマト艦内の描写に関して言えば、極端に悲壮感が減った感じは受けない
- 地球/ガミラス/イスカンダルに関しては、確かに大幅に悲壮感は減っている
「ただし、ヤマトの描写にも問題はあると言えばある」
「たとえば?」
「すぐに壊れて無くなる第3艦橋は、実はヤマトは追い詰められているという分かりやすい表現だった」
「目立つ存在だから、壊れれば印象に残るわけだね」
「そうだ。だからそれを壊さないという選択は、【ぬるくなった】という印象を見る者に与えかねない恐れがある」
「【ぬるくなった】というのは【悲壮感の欠如】?」
「そう受け取られる可能性がある。たとえばショックカノンが破損する描写はあるのだが、取れて無くなるということはなく、あまり印象的な破損表現になっていない」
しかし §
「復活篇とSBヤマトは第3艦橋が壊れるので、ヤマトの破壊表現としてはオーソドックスで分かりやすい」
「第3艦橋が壊れないのは21世紀ヤマトとしては2199だけなのだね」
「おそらく、【第3艦橋が生えてくる】という批判に対応して、復活篇では無くなるのではなくより細部が壊れる表現になり、SBヤマトでは取れたらそれっきりという表現になり、2199は最初から壊さないという表現になったのだろう」
「問題意識は共通しているわけだね」
「原点だけはね。だが、結果としての表現が分かりやすいのかといえば、やはり【損害担当艦橋】の第3艦橋を壊さないのは、分かりにくくなったと思うよ」
「ポイントはそこなのだね」
「そうだ。2199は理屈で解決しがちだが、観客は理屈を共有してくれるとは限らない」