「これは面白い」
「なぜ見に行ったの?」
「監督が2人いるが、一人が湯山邦彦さんだったから」
「それだけ?」
「他にも凄い名前がいろいろ」
「それで面白かったの?」
「そう」
「どこが面白かった?」
「これはね。成長の物語なのだ。実は、ルドルフとは子供の符牒。イッパイアッテナは大人の符牒。だからルドルフは必死に岐阜に戻るとそこには、もっと小さな第2のルドルフが待っている。大人になったルドルフは、もはやその場ではイッパイアッテナになってしまう。では、元々のイッパイアッテナは何になるのか。飼い猫に戻り、固有の名を獲得して終わる」
「1つずつ立場がシフトしていくわけだね」
「そう。構造的に面白い。映画のパターンから行くと、飼い主から離れてしまったネコは、飼い主のところに戻って終わる。それによって物語の主題を回収して終わるように見える。しかし、それは見せかけで実際にはそれによって主題は回収されない。回収されないという要素が、既にルドルフの胎内回帰は不可能であり、残酷な日常を生き続けるしかないことを突きつける。そして、胎内回帰ではなく、ルドルフがイッパイアッテナになることで別の主題を回収して終わる。実に良く出来ていて面白い」
「構造的にも意外性があって愉しいわけだね。他には?」
「圧倒的な大人であるイッパイアッテナは、自らも人間的な弱さを見せることで、逆説的にルドルフは成長して大人になれる。変形された父殺しの一種なのだろう」
「大人になるということは、実は理想的な大人の不在を知ることだという逆説なのだね」
「そうだ。しかし、自分の周囲ではこの映画は全く周囲では話題にならない。それはなぜか。オタクには致命的にこのテーマは理解できない。むしろ極端に拒絶する」
「それはなぜ?」
「成長を拒否して胎内回帰願望を肯定するのがオタクだからだよ」
「それはもっと具体的に言うとなに?」
「胎内回帰願望そのものである某怪獣映画にみんな熱狂する。この映画を淡々と語っている人は非常に少ない」
「でも、胎内回帰願望を正面から否定するこの映画はオタクには流行らないわけだね」
「そうだ。間接的にオタクのオタクらしさを全否定しているからな。しかし、それはオタクに敵対するという意味ではない。成長を描く行為は全てオタクに敵対してしまうのだ」
カメラの問題 §
「この映画の面白いところは、実はほとんどのカメラワークが猫の目線なんだよ。猫本人の視線ではないが、猫と同じ視線なのだ。だから街が違って見える」
「ふーん」
「地面に近いかあるいは屋根の上などの高いところ。人間の目の高さにはあまり来ない」
「だから普通のアニメとは映像の見え方が違うわけだね」
「そして、字が読める猫というのは明らかに不自然なのだが、このストーリーだと字が読めることは必然なのだ。見ている途中は、【あれ】【おや】の連続なのだが終わってみると納得している。良く出来ている証拠だ」
「なるほど」
「描かれる背景のバリエーションは少ない。しかし、水が流れる歩道や、道路の中央に排水溝の蓋が並ぶ脇道など変化があって楽しい」
「道路を見ながら歩くマニアらしい意見だね」
オマケ §
「ちなみに、もう1つ皮肉な出来事があった」
「それはなんだい?」
「昔な。A監督のナディアというアニメがあってな」
「それで?」
「オタクはみんなそれが好きだったが、どうしてもおいらには面白さが分からなかった。むしろ裏番組のがってん太助の方が面白かった。1990年頃かな」
「ぜんぜんルドルフとイッパイアッテナと関係が無い」
「いやいや。そうでもないんだよ」
「というと?」
「今もオタクに流行っている某怪獣映画は自分にはさっぱり面白さが分からないがA監督作品」
「やはりあまり関係ないような」
「そして、こっちの方が面白いと思ったがってん太助の監督はもりたけしさんと言ってな」
「それで?」
「ルドルフとイッパイアッテナのスタッフロールにこの名前があったよ」
「つまり、どれほどオタクにA監督作品が流行っていても、【こっちの方が面白いじゃないか】と君が思う気持ちは同じで、しかも同じ名前まで見てしまったわけだね」
「そうそう。実に皮肉な展開だ。というかあまりにも変化が無いことにゾッとするよ。今年はもう2016年なんだぜ」
オマケ2 §
「更に皮肉なことに気づいた」
「それはなんだい?」
「しばらく前からTOHOシネマズでは映画上映前にルドルフとイッパイアッテナと某怪獣がコラボした映像が流れるのだがね。実際には水と油だった」
「誰かが頭で作ったコラボ映像だってことだね」