「おいらには宇宙戦艦のデザインとして、理想のヤマトというものがない」
「それはどうして?」
「あまりにもカット間の違いが多すぎるからだ」
「でも、理想のヤマトの形状云々という人はいるね」
「そうだ。そこではたと気づいた」
「それはなんだい?」
「理想のヤマト云々という話は、設定資料が前提ではないか」
「ああそうか」
- 画面基準→バラバラ→正しい形状、理想の形状なんて考えるだけ無意味
- 設定資料基準→画面は劣化コピー→設定資料をリファインできる
「その意味が分かるかい?」
「えっ。もっと何か意味があるの?」
「後者はそもそも設定資料という概念を知っている人にしか発想できない」
「つまり?」
「一般に設定資料という概念が流布されるのは最初のロマンアルバム以降だと思うので、設定資料基準という概念を持てるのは以下の2タイプしかあり得ない」
- プロと直接接触している人
- ロマンアルバム以降の基準で考えている人
「裏を返せば、プロと直接接触せず、ロマンアルバム以前の時代にヤマトと向き合った人に【設定資料基準】はあり得ないってことだね」
「そうだな」
「君の場合は?」
「ロマンアルバムもプラモデルも未発売で何も無い状況で、戦艦大和のプラモデルを手にして【ぜんぜん形が違う】と思った子供だったからな。【設定資料基準】という発想はそもそも可能性としてすら考えたことはなかったよ」
「だから君は【画面基準】なんだね」
「そうだな。だから理想のヤマトなんて概念は最初から無い」
「話はそこでおしまい?」
「いいや」
「まさか。まだ続くの?」
「そうだ。実は話はそこで終わらない」
「それはなぜ?」
「設定資料という概念があってすら実は【画面基準】【設定資料基準】の対立は存在するからだ」
「えー」
「つまりだな。ここには以下の概念の対立が存在する」
- 設定資料は作品を作る過程で必要とされる手段であって、客は見る必要がない
- 実際の画面は設定資料の劣化コピーであって、設定資料を見るのが最善である
「話が難しくなってきたぞ」
「昔は設定資料そのものが珍しいから、それを見ることに意味があった。しかし、それが当たり前になると今度は【それは本当に見る必要があるのか】という問題に進む」
「君は見る必要はないと?」
「結局、デザインは作品に奉仕するために作られるのであって、デザインを活かすために作品が作られるわけではない。作品から切り離してデザインだけが一人歩きしても良いことは無い」
「つまり、アンドロメダは復興した傲慢な地球人の象徴であり、アンドロメダだけを切り離して考えることはできないわけだね」
「そう。だから作品から離れてデザインだけ見ることに意味は無いと思えば、設定資料単体を客がみたってしょうがない」
「……と君は思うわけだね」
「そうだ。でも、そうは思わない人もいる。そういうことだな」
「そこで理想のヤマトのデザイン論が出てくるわけだね」
「しかし、理想のヤマトという論が意味をなさない人もいて、そこに深い深い溝がある」
「そこも火種か」
「結局ヤマトは可能性の海であり、全ての人を満足させる唯一の答えは存在しない。そこに正解不正解の概念が持ちこまれると崩壊しかねない」
「君にそう見えたのなら、不正解とは言えない……が、それを唯一の正解とも承認できない(他の人には他の解釈があるから)、という世界に行くしか無いわけだね」