「ハウルの動く城で好きなのは勇壮に出撃した艦隊が負けて帰ってきて、港内で沈む、しかも敵機から宣伝ビラが撒かれるところ」
「それで?」
「【この世界の片隅に】にも沈んだ軍艦が出てくるし宣伝ビラも撒かれる」
「それぐらいで類似点と言われてもねえ。ハウルはファンタジーだが、このせかは史実ベースなのだし」
「うむ。だが、もう1つ重要な類似点を発見した」
「それはなんだい?」
「ハウルの動く城には以下の特徴がある」
「たとえば何について説明が少ないのだ?」
「ソフィーの年齢が上がったり下がったりする理由が説明されていない。より具体的にいえば、ソフィーは魔法を使ったのか使っていないのか、それも曖昧だ」
「それがどうしたんだ?」
「実は【この世界の片隅に】もこの特徴を共有していて、説明が非常に少ない。たとえば、それが作中の事実だったのかすずさんの夢想に過ぎないのか曖昧な描写も多い」
「そうか、その曖昧さこそが、2つの映画が似ている重要な要素なのだね?」
「そうだ。結局、なぜ終戦にすずさんが怒ってしまうのか、その理由も説明されていない。そこは観客側は【なぜ】をきちんと考えないと終わらない」
「要するに何?」
「大人の映画なんだよ。何でも与えてくれるわけではない。隙間は見る側が埋めねばならない」
「最低限のものはくれるから映画としては間違ってないが、全てを与えてくれるわけではないのだね」
だが決定的に違うことも §
「しかし、決定的に違うこともあるのだね?」
「そうだ。作っている人が違うし原作も違うので、決定的な相違も多くある」
「何が大きく違うんだ?」
「より身近な現実に寄り添ったのがこのせかで、より夢想に寄り添っているのがハウルなのだね」
「だから、この世界の片隅にの方が、より身近な物語としてひしひしと感じられる」
「たとえば君の場合、どのあたりが身近さを感じる?」
「荒れ地の魔女なんて似た人すら見たことはないけど、親から【庭に穴を掘って物置を埋めて防空壕にした】という話なら聞いた。防空壕を掘ってる描写は他人事ではないよ。あれは、数十年前の我が家の庭(当時の家は庭も含めて現存しないが)でも起きた出来事だ」
「それだけ?」
「実は以下の点が大きく違う」
「最後に大事件を起こすのが宮崎流?」
「そうとも言えない。なぜなら、片渕監督もマイマイ新子では最後に子供だけで大人の夜の街に乗りこむという大事件を起こして終わっているからだ」
「じゃあ、最後に大事件を起こさないのは、【この世界の片隅に】だけに見られる特徴?」
「かもしれない」
「それは好感すべきこと?」
「割と好感したぞ。映画はだいたい2時間前後で終わらなければならないが、大事件で終わらなければならないという法律はない。大事件があった方が分かりやすいけどね。でも、必須というわけではないし、この映画の世界観だと死んだ人が戻ってくるとか無くなった手が復活するという展開もあり得ないし、この終わり方でしっくり来ると思う」
更に §
「よく考えると以下の点も似ている」
- 女性主人公が身体の一部を失い何かを得る (ソフィーの髪の毛、すずさんの片手)
「でも、髪の毛と片手では悲惨さが違うよ」
「そこが決定的な相違だ。宮崎監督は決定的な身体欠落を可能性に留め、また生えてくる髪の毛を差し出した。片渕監督は身体欠落を可能性ではなく実際に起こしてしまった。ここで身体欠落をただの過激な刺激として使ったらダメだが、それに意味を与えたのは良かった」