「うん。ちょっと辛辣な感想になってしまうがね」
「なぜ辛辣なんだい?」
「それはね。自分が思ったことを正直に言うと、そうなっちゃうからだよ」
「嘘は付きたくないってことだね」
「嘘はやはり良くない」
「ではその辛辣な感想とは?」
「21世紀に蘇ったヤマトがヤマト2199ならば、逆説的にヤマトは21世紀に蘇ることはできない、という冷酷な事実を突きつけている」
「その意味は?」
「うん。結局、ヤマトは太平洋戦争を前提にした作品であり、それは体験した者にしか語れない」
「スタッフの能力は関係無いってことだね」
「そうだ。どれぐらい優秀なスタッフが集まったところで、作れない。枝葉のどうでもいい話に流れていくだけで、本質が欠落する」
「枝葉とは?」
「ドメルの奥さんとかだね」
「本質とは?」
「戦艦大和との連続性だ」
「それは戦艦大和を改造していないってこと?」
「それだけではなく、いろいろな意味での継続性だ」
「つまり、復活篇こそが最後のヤマトであり、その後のヤマトはヤマトの形をしているだけでヤマトではないと?」
「SBヤマトは良く出来ているが、それでもあそこでヤマトの形をしている必然性が希薄だ。ヤマト2199はむしろ、ヤマトを21世紀的な価値観で蘇らせようとした結果、迷走した」
「幻のボツ企画の実写ヤマトは?」
「戦艦大和が沈むとき既に波動エンジンを積んでいたという奴だね。それは辛うじて継承性が残っていた」
「じゃあさ。最終的何が何がどう問題なんだい?」
「つまりさ。最近ヤマト1974を照査する補助線たり得たのは何かと言えば、ヤマト2199ではなく、【この世界の片隅に】であり、片渕須直監督だってことだ」
「それっていったい何が違うんだ?」
「おそらくね。今ヤマトを語る方法は歴史研究を経由するしかなく、片渕須直監督は片足を歴史研究家の領域に踏み込んでいるということだよ」
「歴史研究家? 作品のために資料集めではなく?」
「そうさ。零戦の飴色論争でも一言あったり、いろいろなことをしているようだよ。そもそも、マイマイ新子からして歴史ものだ。農村風景の向こうに平安時代が見えるアニメだ」
「つまり、アマチュア郷土史研究家としての君と似た立場なのだね?」
「たぶんそう。だから、通じる言語がある」
「結局、まとめると何?」
「つまりさ。どれほど優秀なスタッフがヤマト愛を込めてヤマト2199を作ったとしても、ヤマト1974から見て、ヤマト2199より【この世界の片隅に】の方が近い位置にある、という皮肉がここにある」
「優秀さとか愛情の問題ではないのだね?」
「そうだ。ヤマト世代は基本的に戦争を知らない世代だから、ヤマトを解釈するには歴史を遡航する必要があるんだ。自分がいる場所はまさにそこだ」
オマケ §
「うん。だからね。1945年8月15日を待たずして日本は事実上負けていたわけで、【この世界の片隅に】で1945年8月15日を待たずしてすずさんに決定的な事件が起きる展開は妥当なのだと分かった。【この世界の片隅に】で、8月15日が割とあっさり流されているのは、単なる儀式に過ぎないからだろう」
「大和は沈む前から負けが確定していたわけだね」
「そうさ。呉にいられなくなった時点でもう終わっていたのだろう。敵に一矢報いることすら難しくなっていた」
「そのことに意味があるの?」
「うん。だからね。無意味な出撃で沈んだ大和にあえて理由を付けるとすれば、既に波動エンジンを積んでいた大和を連合軍に触らせないためにあえて深い海に沈めた、という解釈も可能になってくるのだよ」
「そこにつながるのか」
オマケ2 §
「スーパー監督大戦やってもダメなの?」
「スタッフの力量をいくら上げても、それだけでは世代の壁は破れない」
「無限の加速力があっても光速は超えられないのと同じだね」
「うむ。だからワープが必要なのだ」