「WikiPediaの【霊柩車】の項目に、以下のような記述がある」
1921年(大正10年)になると、当時はまだインターアーバンであった京王電気軌道(現・京王電鉄)に霊柩電車を走らせる計画が浮上した。京王線沿線には多磨霊園があり、京王線から霊園まで既存の道路に軌道を敷設することを想定していたが、大阪同様に都市化の進行とともに自動車が普及し、この計画も実現されなかった。
「京王の霊柩電車なんて聞いたことないよ。貴賓車ならあるけど」
「そうだ。そこで調査を開始した」
「いったいどこからそんな話が出てきたんだ?」
「WikiPediaでは、典拠は【封印された鉄道史】という本だとしている。そこで、それを取り寄せてみた」
「どうだった?」
「確かに、計画があったと書いてある」
「それは事実として承認して良いの?」
「実はこの本、ネットでは間違いが多いと評判が悪い。とても頭から信じられる本ではない。まあ信じられる本でも典拠チェックはするけどな」
「えー」
「とりあえず、駅名を多摩駅と書き間違えている。多磨霊園駅は当時多磨駅だったはずだ」
「更に典拠を調べる必要が出てきたわけだね」
「この本、実は参考文献リストはあるが、注釈がないので具体的にどの本に典拠があるのか分からない。しょうがないのでギャンブルとしてあたりを付けて【増補新版 霊柩車の誕生(朝日文庫)】という本を電子書籍で買ってみた」
「それでどうだった?」
「当たりだ。ほぼ同じことが書いてあった」
増補新版 霊柩車の誕生(朝日文庫) 3 葬式電車の走った街 より
東京市の都市計画に基き新設さるべき共葬墓地と火葬場は愈旧臘末北多摩郡多摩小金井両村の内三十万坪と決定した……京王電車は同様多摩停留場より分岐し墓地迄新線を延長することになつて居る。尚市では一般の便宜を図り貸切りの葬儀用電車を造り棺と付添人とを載せ其儘墓地迄運転させる予定で(『東京日日新聞』大正一〇年一月一二日付 傍点は筆者)
「京王電車」に支線をひき、市が「葬儀用電車」を運転する、という計画が大正一〇年ころにはあった。では、いったい、この計画は実現されたのか。どれほどのリアリティをもっていたのか。現在の京王帝都京王線「多磨霊園」駅や、西武多摩川線「多磨墓地前」駅などは、この記事と関係があるのか。今のところ、筆者にはよくわからない。京王帝都電鉄でも不明だといっていた。とりあえず、計画の存在を指摘するにとどめておく。
「まさにそれっぽいことがかいてあるね」
「ところが、細部にニュアンスになるとまったく別物だ」
- 京王は線路を敷くだけで車両は東京市が作成すると読める (これが事実なら、京王に霊柩用車両の話が計画すら全くないことが良く分かる)
- 主張しているのは大正10年の東京日日新聞であるが、これを読む限りでは根拠不明の曖昧な話である
- 京王帝都電鉄(当時)でも不明だそうである (おそらく、今はもっと不明)
「つまり、どういうことだい?」
「これは当時も今もいろいろな場所にある特定企業専用の支線のようなものだよ」
「日本製紙物流専用線とか、在日米軍横田飛行場専用線……的な路線だね」
「そう。専用の機関車や貨車があって、本線と接続している特定企業専用の路線。それに類するものだと思うとしっくり来るのではないか」
「線路は京王で作るけど車両はそっちで用意して運用も頼むよ、って感じか」
「しかし、話が流れたのは良く分かるような気がする」
「なぜ?」
「京王はあまりそうい専用路線は作らないからだ」
「えー」
「京王線の長沼の近くまで国鉄から分岐した専用線が来ていたけど、京王は専用線を作らなかったからね」
「流れるべくして流れた話か!」
「取りあえず、京王がそういう路線の免許を出したという話も聞かないし、おそらく条件がいろいろ折り合わず早い段階で流れた計画ではないかと思う」
「いろいろと語られる京王の未成線よりも更に現実味が薄い路線ということだね」
「というわけで結論である」
- 典拠はおそらく東京日日新聞しか存在しない (もし他にあればぜひ情報を教えて下さい)
- 本当に計画が存在したのは分からない (新聞は割と虚報を載せる)
- 計画が本当にあったとしても、WikiPediaや【封印された鉄道史】は少し解釈が走りすぎである。想像で記述の隙間を埋めすぎている
- 計画が存在するとしても、京王の霊柩電車計画は存在しない。霊柩電車を保有するはずだったのは東京市である
- 京王が作ったかも知れない支線は、おそらく砂利採取用の支線と大差ない規模で、もし終点の駅施設も霊園側で用意するとしたら特殊な計画は何も存在しなかった可能性もある