今日は、東京都現代美術館の映画「イノセンス」公開記念 押井守監修 「球体関節人形展」 ~DOLLS OF INNOCENCE~に行ってきました。
以下は、反射してしまって見えにくいですが、手前に掲示してあったポスターです。
押井守という人のセンスには、ちょっと心惹かれるものがありますが、それと東京都現代美術館がどう結びつくのか良く分からないところに好奇心を刺激されました。しかし、人形という題材にも、どこかで心惹かれるところがあったのかもしれません。
ちなみに、東京都現代美術館は清澄白河にあります。上野や目黒にはありません。東京都の美術館は複数あるので注意して下さい。ちなみに清澄白河という駅は、大江戸線開業までは無かったもので、それが駅名であるとピンと来ない人も多いかも知れません。しかし、今は半蔵門線も通っている便利な駅です。
タイミングの問題 §
さて、こういうイベントには、適切なタイミングというものがあります。
ともかく、人が多い時に出向くことは避けねばなりません。前に、東京都現代美術館に都市と美術・ガウディ かたちの探求を見に行ったときの混雑ぶりなどを考えれば、それは必須要件です。
今回の球体関節人形展は、今日が開始から2日目。しかも日曜日。押井守には熱狂的ファンが多いし、映画イノセンスの前の作品となる甲殻機動隊も熱狂的ファンが多い映画です。その状況で、のこのこ出て行くのは、芋を洗う状態になりかねません。
しかし、毎日先着100名様に主題歌CDをくれるというので、ノコノコと出向いてしまったのですよ。
ところが、開始時刻を30分ぐらい過ぎた時間に行ってみると、主題歌CDは窓口に山積み状態で、まだたくさんありました。中に入ると、じっくりゆっくり見られるぐらいに適度な人数でした。人ばかりで展示が見られないということはありませんでした。良かった良かった。
官能、倒錯、その他の何か? §
内容は、予想以上に危ない世界ですね。
人形というものに、過剰な愛情を注ぐだけでなく、さらにはバラバラにされたりグロテスクに変形されたり。かなり異常な世界だと思います。普通の精神の持ち主には、かなり厳しい世界かも知れません。
しかし、怖さも感じながら面白さもありますね。
人形を通して投影される人間の願望。人間を分解組み立て可能なものに見立てる感覚でしょうか?
ある意味で、人は自分をこういうものにしてしまいたいのかもしれません。
とはいえ、「草薙素子(甲殻機動隊の主人公)萌え~~~」的なオタクが安易に入り込める余地は寸分も無い世界であって、その点でオタクが集まっていないことも、客が多くないことも良く分かりますね。見ている人達の中で、女性比率が高かったような気がするのも、何やら印象的でした。
バラバラになった人形を見て何を思うのか §
バラバラになった人形というのは、けっこう恐ろしい感じを漂わせるものです。人の形をしたものがバラバラになっていれば、我が身をバラバラにされたようですから。
しかし、今日、そういう展示を見て別の感情が湧きました。
それは、バラバラの人形は私が組み立てて直しうる存在である、というポジティブな感情です。完璧すぎる人形は、孤高の拒絶感を漂わせる場合があります。しかし、バラバラの人形は、誰か人間の介入を待っている状態であり、人とのある種の相互補完関係、コミュニケーションを持っていると言えるかも知れません。そう、それは人間に対して「自分は必要とされている」という満足感を与える状況であるが故に、人形の空白を埋めると共に、人間の空白をも埋めるものであるわけです。
とまあ、そんな新鮮で新しい感覚を得ることができました。
やはり、現物を目の前に見たからこそ思う感覚なのでしょうね。写真では分からなかったと思います。
やはり押井守は本物だ! §
この展示を見て、映画イノセンスの短い宣伝フィルムを見た後に思ったことは、「やはり押井守は本物だ!」ということです。
おそらく、アニメオタク系の押井ファン、甲殻ファンの大半の期待をバッサリと裏切って、全く別個の世界を作ろうとしています。
たとえば、主人公が女ではなく、ほとんど機械にされたおっさんであるという時点で、「萌え~~」と叫ぶ反射行動を繰り返すことしかできないオタクは置いてきぼりでしょうね。
しかし、そういう過去と隔絶した新しい領域に踏み込んでいく行為こそが作家の作家たるべき基本資質であって、それが本物であるという感想につながります。
直接関係はないけれど §
球体間接人形ではありませんが、間接部が球体になっているこんな映像を試作したことがあることに気付きました。サイトでは公開していませんが、Autumn Visual Factoryの作品ということになります。
やはり、興味なしというわけではなかったようですね。