以前から抱えていた2つの謎は実は連動していたかもしれない発見 §
限りある人間でしかない私は、もちろん解き明かせない謎をいくつも抱えています。
そのうちの2つが、実は連動してるかもしれない、というアイデアを思いつきました。
念のために言えば、これは謎を解き明かしたという話ではなく、謎と謎に関連があるかもしれないという発見の話です。しかも、「かもしれない」という可能性を発見したというだけの話で、本当に関連があるかどうかも分かりません。
という話を前置きして、まずはその2つの謎について説明します。
謎その1: 最近のHUNTER×HUNTERではあっさりと人が死にすぎるのはなぜか §
HUNTER×HUNTERという非常に人気のあるマンガがあります。
これは、「念」と呼ばれる超能力のような特殊能力を持ったハンターと呼ばれる職業の人々が活躍します。
最新刊は21巻ですが、長いマンガのよくあるパターン通り、21冊を通して1つの話になっているわけではなく、ほぼ独立したいくつかの大きな話に分けられます。現在は、キメラ=アントという食べた相手の能力を見つけることができる怪生物を主題とするキメラ=アント編とでも言えば良いでしょうか。その前は、グリード・アイランドと呼ばれるゲームを巡るグリード・アイランド編でした。
さて、キメラ=アント編の特徴は、あまりにもあっさりと遊び感覚で大量の人間が死んでいく残虐性にあるように感じられます。これは、単に死人が多いマンガという意味ではありません。キメラ=アントの一族の中には、いろいろな性格の者達がいて、社会性もあります。つまり、暴力的であったり独裁的であったりする者がいるかと思えば、人間性に魅力のある者がいたり、互いを思いやる心を持った者もいます。つまり、キメラ=アントの全てを、許す余地のない敵と見なすことができません。それにも関わらず、彼らはいともあっさりと大量の人間を殺します。このギャップが、単に死人が多いという印象を超えた極度の残虐性を印象づけます。
しかし、このような残虐性は、HUNTER×HUNTERという作品に固有の特徴ではありません。確かに、非日常的な戦闘を描く作品ですから、残虐なシーンもあります。しかし、それらと比較して、キメラ=アント編の水準は桁違いです。さしたる意味もなく、大量の一般人が、まるで人形を壊すようにあっさりと身体を破壊され、死んでいくという描写は、おそらくキメラ=アント編にだけ見られるものです。
さて、ここからが私の疑問です。
どうして、このようなシーンが平然と描けるのか。
そして、このようなシーンがなぜ平然と読者に受け入れられてしまうのか、と言うことです。
念のため補足すると、そのような疑問があり得るとしても、やはりHUNTER×HUNTERは良くできた面白いマンガです。読む価値のある作品だと思います。
謎その2: ゲームに没頭していてふと気付く恐怖感 §
2004/03/25に、testml4へ向けて私が書いた文章があります。
[testml4 02039] Re: 人間には唯一で確実な自由意思がある?
より
p.s.
ああ、これは全く余計な言葉で、無意味な波乱を呼ぶかもしれませんが。
これを送信する前にふと思ったこと。
たかが十代のガキンチョや二十代の若造が、自分の命を断つかどうかの判断ができるだけの成熟に達していると考えてしまうのは、やはりコンピュータゲーム上で、あまりに安易にリセットできる「死」が溢れすぎたためでしょうか。
最近、FFX-2をやりながら、ふと、RPGをやり続けることで感覚のどこかがずれているような感じがして、自分に対して怖さを感じることがあります。
それでも、これからドラクエVをやって、フローラを嫁さんにして可愛い娘を作ろうとしていますが。(ビアンカ? 通はフローラ……なのか?^^;)
これは私の抱える謎の1つについて述べていますが、その謎が何であるかを説明する意図を持って書かれていないので、それを読み取りにくくなっています。
それを説明する前に、難解と思われる用語について補足しておくと、FFX-2とはFINAL FANTASY X-2というRPGの略称です。RPGとはロール プレイング ゲームの略で、本来の意味はプレイヤーが特定の人物の役割を演じるゲームです。しかし、コンピュータゲームの世界では、経験値を稼いで強くなるファンタジー的なゲームの総称のようなニュアンスの方が強いかもしれません。ドラクエVは、ドラゴン クエスト V(ファイブ) (Play Station 2版)というRPGです。このゲームでは、主人公が結婚を行うイベント(事件)があり、その際、幼なじみのビアンカ、金持ちの娘のフローラのどちらかを選ぶことになります。
さて本題に戻ると、この文章を書くにあたって私が抱いていた謎とは、以下のようなものです。
ゲームをプレイしている途中で、機械的に相手を殺戮している自分に気付いて、怖いと感じることがあります。これは反論される余地のないことだと思います。何せ、私の心の中の出来事ですから、他人の誰がそれを否定できようか、ということです。
これは、別の言い方をすれば、自分でも気付かないうちに私の感性がゲームの影響を受けて変化していることを意味します。
念のために補足しておくと、ここで安易にリセットできる「死」と表現しているのは、自分の死つまり、自分の分身であるゲーム内キャラクターの死ではありません。そうではなく、自分が殺している相手の死について述べています。ゲーム内の誰を殺しまくっても、彼らはリセットさえすれば生き返ります。生き返ったらまた殺します。そうして何回も殺し続けるうちに、死に関する感性がずれていしまったのではないか、と気付いたということです。
プレイヤーの分身が死ぬことは、実はけっこう痛いことです。本物の死に比べれば痛くはないですが、それでも苦労して積み上げてきたゲームの進捗がパーになってやり直しを要求されることになるのは痛いことです。それについての痛みが希薄になることは現実的には考えにくいところです。しかし、自分が倒す敵の死については話は別です。その死に対する感性がずれていくのを止める歯止めは思い当たりません。
これは、いわゆるゲーム脳の問題とは違うことに注意して下さい。ゲームばかりしているとゲーム脳になるという主張は、かなり怪しい面があるように思われます。しかし、ゲーム脳なる主張がトンデモであるという主張と、ゲームによって感性が変化しているという主張はイコールではありません。つまり、ゲームによって精神が極端な異常状態に陥るという主張は現実的にはナンセンスに思えますが、だからといって影響が皆無とは思えません。では、具体的に何がどう変わっているのか、というのが私の抱く2つめの謎と言えます。
そして。私に影響があるとすれば、他のゲームで遊ぶ人達にも影響があると推測することも当然の成り行きでしょう。そして、多くの人達に影響を与えているとすれば、それは社会にも何らかの影響を与えている可能性があります。
具体的に、どの程度の、どのような影響があるのか、あるいは無いのか。あるとすれば、それにはどのような功罪を引き起こしているのか。これも、抱いている謎の内と言えます。
謎をつなぐミッシングリンクか? RPGにはまる作者 §
噂に寄れば、HUNTER×HUNTERの作者はRPGにはまっているらしいのです。
それを表現したパロディマンガがあります。
ここに登場する少年は、HUNTER×HUNTERの主人公を模したもの。犬は作者を模したものです。DQ5は上記のドラクエVです。そのゲームをやり続ける作者は、片手間で手抜きの原稿を描いていきます。
他にも、FINAL FANTASY XIにはまっているとか、ゲームにはまって原稿を落としたとか、下書き同然の原稿を連載雑誌に掲載したといった噂があります。
それらの噂が事実であるかは分かりません。
しかし、仕事に差し障るほどRPGに没頭する人間が描く作品の中で、「死」の存在感が異様に軽い残虐な描写が行われているのは、はたして偶然と言えるのか。
そして、このような作品を平然と受け入れる読者の方も、RPGへの熱中などを通して、「死」に対する感性がずらされてしまっているのではないか。
そのような問いかけが可能ではないかと気付きました。
これで終わり…… §
はい、その通り。この文章は、このような問いかけが可能であるという発見について書かれたものであって、その問いの答はありません。
いつか、その答えが分かる時が来ることを期待して終わります。(確たる答えが出ないまま終わるという可能性も高そうですが)