正直、ブログというのはゴミの山であって、それらを読みあさるのは無駄の極地という印象があるわけです。その理由は簡単で、書き手が不特定多数の相手に対して書くということが何かを分かっていないから。それは、誰でも簡単に書けますという切り口で売り込んだことによる必然的な帰結であって、それが良いとか悪いとか論評するのはある意味で筋違いでしょう。
ただ、不特定多数を相手に書くということが何か承知したうえで、それ相応の覚悟を持って自らの書いた文章を提示している人もいるのは事実です。全体としての割合は小さいと思いますが。
そして、そういう人の書いたものの中には、グッと来るものがあるのも事実です。
以下がそれです。
これは、けっこう心理的に来るものがありました。
金を出して買った本でも、これほど来るのはあまり多くないでしょう。
金儲けが下手ならば §
ここに出てくるK君は、電子メールが使えません。携帯電話も持っていません。子供が多く、お金に困っているらしいことが示唆されています。
これは他人事ではありません。
私も、金儲けはへたくそなので、もしも奥さんや子供を抱えていたら、K君のような人生を送っていた可能性はあり得ます。
現在、私がパソコンを使いまくっているのは、それは商売道具だからであって、純粋に趣味の道具と考えたときにパソコンがこれほど使えるかは疑問です。
ともかく、K君という人物が分かるとは言いませんが、痛いほどに分かった気分になれるとは言えます。
あり得たかもしれない自分に見えるということです。
余談1・電話のこと §
上記の文章では、話の枕に電話と電子メールの話が出てきますが。
実は、現在電話を復活しつつあります。
パソコン通信全盛期から、編集者との連絡はほとんど電子メールになっていましたが、最近徐々に掛かってくる電話が増え始め、私もついさっき電話を掛けてしまいました。(相手は不在でしたが)
迷惑メールの洪水に溺れてしまった電子メールというシステムが既に死んでいるのはあきらかです。特に、電子メールのアドレスを公開して、1日数百通の迷惑メールを受け取っている立場であれば、それは議論する余地もないほど明確な現実でしょう。
更に言えば、実は上記のブログの話と同じく、電子メールも正しく書けない人が珍しくないために、コミュニケーション手段として機能していないという側面があるのです。機能としての電子メールは使えても、そこに書かれる日本語に問題があるということです。「正しい日本語」という意味ではなく、必要な情報を曖昧さ無く書き、意図を伝えるという作業ができていない人が多いという意味です。電話なら、即座に質問して曖昧さを取り除くことができ、効率的です。
電話が最善のコミュニケーション手段とは思いませんが、それに頼らねばならない時代が来ているような印象はあります。
余談2・手塚の存在感 §
本筋と関係のない話ですが。
そういえば、K君は熱烈な手塚ファンだった。しかしぼくにとっては、手塚治虫はオールドファンションな過去の作家だった。ぼくは、この全集を通して手塚治虫を再認識することになる。手塚は駄作も名作もひっくるめ、とにかく圧倒的な作品数で戦後漫画の屋台骨を背負ってきた巨人だったのだ。
ここを読んで、「手塚の再認識」というフレーズに思わずうなずいてしまいました。
あまりにも当たり前の存在になってしまった手塚作品は、それと意識せずに読んだもの、あるいはアニメで見たものが多かったと感じます。
だから、あらためて「手塚は……」と言われたときに思い浮かべるイメージが狂っていたと言えます。だから、無意識的な手塚を意識的な手塚に変換していくためには、「再認識」という手続きがどうしても必要だった……、という印象があります。
ということで、実はこのあたりにも、全く本筋と関係なく感情的に同意してしまった面があるのです。