2006年06月05日
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オタクは死んだ!? その死はいつ起きたのか? 少女マンガとジェンダー越境的作品受容論!

Written By: トーノ・ゼロ連絡先

 最近、いくつか引っかかることがありました。

  • ベストセラーの少女マンガのNANA(矢沢あい作)を4冊ほど読んでみたら、非常に面白かったにも関わらず、周囲多数派のオタクは触れようともしない
  • 小形克宏さんが少女マンガを読んでいた話題を書いてくれたにも関わらず、うまくリアクションできなかったこと (SFと少女マンガ)
  • 岡田斗司夫氏が、「オタク・イズ・デッド」(オタクは死んだ)と発言したらしいことを知ったが何を言っているのかさっぱり理解できなかった。死んだというならとっくの昔に死んでいたのではないか? (岡田斗司夫の「オタク・イズ・デッド」発言と反応 途中報)
  • DISCODE reverseという18禁同人ゲームを購入し、内容の異質さ、その異質さが受容されていること(売れ筋)、そして拒否反応が見られることはどういうことか

 最後のDISCODE reverseへの拒否反応をインターネット上で見たときに、もやもやとしたこれらが1本につながった気がしました。

 この文書は、DISCODE reverseというゲームを起点に、おたくの持つ「ジェンダー越境」的な性質に着目し、おたくというジャンルの死亡推定時刻の検討を行います。

高校生の少女になるプレイヤー §

 DISCODE reverseの主人公、和泉鏡華は性欲を持てあました高校生の少女です。ショートカットのさっぱりした性格であり、学校では優等生でもあります。プレイヤーは、この和泉鏡華となって、10月のほぼ一ヶ月間を過ごします。

 最も主要な場所は、不特定多数を相手にする輪姦パーティーと特定の一人を相手にする性欲処理クラブです。どちらも行為を強制されることはありません。これとは別に、校内、町中、公園などで行う露出という行為があります。また、インターネットで体験談を投稿したり、自分の恥ずかしい行為を撮影したデジカメ写真を投稿することもできます。露出とインターネットは複合して使うことができ、インターネットで露出予告を行ってから露出を行うと、人が来て性的な行為に進むことができます。

徹底的に男性に都合の良いヒロイン・和泉鏡華 §

 さて、システム的な特徴はさておき、和泉鏡華というキャラクターの特徴について述べる価値があるでしょう。和泉鏡華は、可能なあらゆる性行為を、ほとんど拒みません。それどころか、相手の男性が望む通りに振る舞います。相手が体操服フェチだとすれば体操服を着、シスコンなら「お兄ちゃん」と語りかけながら行為に及びます。相手が望めばスクール水着も着るし、首輪を差し出されれば自らそれを首にはめて夜の公園を犬のように散歩します。このような特徴は、和泉鏡華の持つ知的水準、精神的な成熟度の高さによってもたらされるものと言えます。相手の望むことを瞬時に的確に把握し、相手の望む通りの行動を取ることで、自らの欲求も解消しようとします。それらを意識的に把握してコントロールできる優れた知性の持ち主です。これは男性から見れば、ある種の理想的な存在と言えるでしょう。特殊な欲求があっても、あるいは無くても、相手の方がそれに合わせてくれ、しかも拒んだりはしません。徹底的に男性に都合の良いヒロインと言えます。

「誘い受け」という特異構造 §

 さて、このような構造は、ポルノあるいはエロゲーにあって特異なスタイルだと言えます。通常、性交渉を持つ男女は、主導権を持つ側と、受動的な側は明確に分かれます。しかし、和泉鏡華は表面的に受動的な立場に立っているように見えながら、実際には主導権を握っています。たとえば、町中で露出している時に男達に襲われる……という状況は、実は和泉鏡華自身がインターネットの露出予告を通じて自ら用意したものであり、しかも実際に襲われる段階に入っても、和泉鏡華は言葉巧みに男達を誘導し、ある程度行動をコントロールすることすらできます。

 このような特異な構造を持つジャンルを、「誘い受け」と呼ぶようです。つまり受動的立場(受け)を意識的に作り出す(誘い)ということです。

和泉鏡華は理想の恋人ではない §

 さて、インターネットを検索すると和泉鏡華を毛嫌いする人もいるようです。徹底的に男性に都合の良いヒロインであるはずの和泉鏡華がなぜ嫌われる必要があるのでしょうか? ここに最大のポイントがあると感じます。

 「誘い受け」という構造を裏から見ると、「男は主導権を取っているかのように見えつつ、実は女に全てコントロールされている」という状況が見えてきます。単に、「やれればよい」というレベルを超えて、男性の立場から和泉鏡華を対等に付き合う女性として見るならば、男を手玉に取る悪女というように見えます。

 DISCODE reverseが描いている物語とは、あくまで和泉鏡華にとっての理想世界であって、男性にとっての理想世界ではないということです。

 必然的に、このゲームは、和泉鏡華に感情移入し「プレイヤー=和泉鏡華」という気持ちでプレイする場合には(性的嗜好の問題はあるが)、基本的に気持ちの良い疑似体験をもたらしてくれるのに対して、和泉鏡華を自分の伴侶と見なして、男性の立場から女性の伴侶の行動を見守る気持ちでプレイすると、イヤな気分になる可能性が大きいと言えます。

少女マンガという構造 §

 このような構造は、少女マンガが典型的に持つ構造に似ているといえます。

 たとえば、主人公の一人の少女の周囲に、複数の美形男性がいて、少女は彼らにドキドキする……というような構造が比較的よく見られます。

 具体例を出すと、NANAでも、小松奈々は遠藤章司と一緒に東京で暮らすために田舎から出てきたにも関わらず、出てきてすぐに格好良いバイト先のお兄さんにぽーっとなったりします。

 男性が少女マンガを読むということは、少なからず、このような構造に向き合うことを意味します。つまり、たとえ男性読者であっても、少女主人公の周囲に複数の美形が集まって主人公がぽーっと幸せな気持ちになっていたら、それは幸せな気持ちだと受け止めねばならないのです。もしも、そう受け止めることができず、複数の男を股に掛けてイヤな女だ……、などと思ったら読み進めることは難しいと言えます。

失われた少女マンガ構造 §

 つまり、DISCODE reverseとは、男性向けエロゲーでありながら、女性向け少女マンガと同じ構造を持っていると見なすことができます。

 これは特異的な構造だと思います。なぜなら、最近の多くの男性向け作品は、一人あるいは暗黙的に想定される見えない男性一人に対して、複数の美少女を並べるカタログ的な構造を持つことが多いためです。このような作品において、男性の読者、視聴者、プレイヤーは、男性主人公となって女性を選ぶ立場に立ちます。

 しかし、昔からそのような構造が典型的だったわけではありません。少なくとも、ときめきメモリアルやTo Heartの流行より前には、あまり見られない構造だったのではないかと思います。

 少なくとも、「おたく」という用語を初めて世に送り出した「漫画ブリッコ」という雑誌は、(レモンピープル等と並んで)いわゆる男性オタク向け成人コミック雑誌の始祖のような位置づけで見られることが多いにも関わらず、実際には非常に多くの割合の女性読者が存在したとされます (大塚英志氏の著書などにそのような記述が見られる)。この雑誌には、明らかに男性向けではないコミックも掲載されており、男性向け、女性向けという区別に関係なく、読者はどちらも受容することができたのではないかと思います。

 更に遡れば、子供の頃はクラスの男の子達は皆キャンディキャンディを見ていて、女の子達は皆マジンガーZを見ていた……という(誇張された)主張もあるし、小形克宏さんがブログで示したような「みんなが少女マンガを読んでいたSF研」のような存在も考え合わせれば、おそらく1970年代から1980年代の序盤ぐらいまでは、男性向け、女性向けという区別を乗り越えて作品を受容する能力を、多くの読者や視聴者が持ち合わせていたのではないかと考えます。

 しかし、そのような能力はどこかで衰退してしまった感があります。

 ここでは、そのような能力を「ジェンダー越境的な作品受容能力」と呼んでみましょう。

 NANAを今時のオタクが受容できないとすれば、このような能力の衰退に原因があるという仮説を立てることができます。

「おたく」と「オタク」の境界はどこにあるのか §

 黎明期の「おたく」と、今時の「オタク」違いは多くあります。その中の1つとして、「ジェンダー越境的な作品受容能力」という条件を示すことは有益ではないかと思います。

 問題は、このような能力の有無をどうやって判定するかです。もしかしたら、少女マンガやそれを原作としたアニメを愛好できるか……によって判定できるかもしれません。

 ここで注意すべき点は、少女マンガ側にも脱少女漫画的構造的な動きが見られることです。たとえば、(TVアニメしか見ていないが)セーラームーンでは、初期の段階では主人公の月野うさぎの周囲には、元基お兄さん、地場衛、タキシード仮面(序盤ではタキシード仮面の正体が地場衛とは明かされていない)と3人もの美形が揃っていて典型的な少女漫画的構造を持ちますが、すぐに地場衛=タキシード仮面とだけ深い関係になってしまい、複数の美形に囲まれる主人公という構造は長続きしません。

 ここで判定のリトマス試験紙として使えるのは、セーラームーンよりも、同時代の作品としては、むしろ怪盗セイント・テールでしょう。これも、つまらないと言い放つオタクの多い作品だったという印象がありますが、本作も男を手玉に取る少女という構造を持つ作品と言えます。自分から予告して男を呼んでおきながら、男に追われるというのは、「誘い受け」の構造に酷似します。ここで、もしも正しく主人公の羽丘芽美に感情移入できず、アスカJr.などに感情移入してしまうと、毎回怪盗の盗みを阻止できないストレスばかりが溜まる一方でしょう。

 実は、上記の「おたく」と「オタク」の境界はどこにあるのかという問題は、このあたりに分水嶺があるような気もします。つまり、怪盗セイント・テールの受容に失敗した者達は、その時点で「ジェンダー越境的な作品受容能力」を喪失しており、(あるいは最初から持っておらず)、「漫画ブリッコ」を正面から受容していた黎明期の「おたく」とは異なる性質を持つ、美少女のカタログに萌える「オタク」であった……という解釈ができるかもしれません。

 もし、このような解釈が正しく、そして受容に失敗した者達が男性視聴者において多数派であったとすれば、アニメの怪盗セイント・テールが放送された1995年の時点で、「おたく」は既に死んでいたということになります。

ちょっと待った! 今ここに生きている「おたく」! §

 「おたく」は既に死んでいた、という結論で終わるなら、このような文章は書きません。

 話をDISCODE reverseに戻しましょう。

 実はこのゲーム、去年の4月にリリースされ、1年以上も経過した作品です。それにも関わらず、比較的店舗が狭い新宿の「とらのあな」では、複数のパッケージが見やすく置かれていて、堂々と売られていました。

 売れない商品を並べておく棚など無いでしょう。

 長期間売れ続けているということは、一時的な錯覚で売れただけ……という可能性は低そうです。

 ということは、これを買っている人達が相当数いることになります。

 彼らの全てではないにせよ、それなりの割合のプレイヤーは「ジェンダー越境的な作品受容能力」を備えている……と見なして良いのかもしれません。

 とすれば、「おたく」は死んではいない……という主張があり得るかもしれません。

 つまり、世間が華々しく取り上げる「オタク」ではなく、こそこそと恥ずかしそうにエロゲーを作ったりプレイしている層にこそ、本来の「おたく」文化は生き延びていたのではないか……と考えることができるかもしれません。

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